『夜はそのまなざしの先に流れる』(短編小説)

空気公団のアルバム『夜はそのまなざしの先に流れる』と、そのコンセプト「人にあいていた穴」から着想を得た物語です。

「夜はそのまなざしの先に流れる」

人の可能性は、大人になるとともに消えていく。
そんなあたりまえのことに気づいたのは、いつのことだったろう。
何かを選ぶことで、何かを諦める。
そのことに納得がいかなくて、彼は何度も道を踏み外した。

何も持っていない、と彼は思っていた。
今まで長い月日を生きてきて、いまだ何ひとつ手にしていない。
今となっては何を望んでいたのか、それすらも忘れてしまっていた。

この夜が明けたら、またひとつ道が失われていく。
そんな気がして、眠ることすら惜しくなる。
夜と朝の境目、今日と明日のつなぎ目を見つけようと、今夜も眠い目をこする。

2017年8月23日の夜

いつのまにかあいていた穴。こんなに大きくなるまで気がつかなかった。
僕らの穴は呼吸するみたいに、毎日開いたり閉じたりを繰り返している。

初めは電車の中だった。
座席でスマホをいじる学生や、吊革につかまり、話すカップル。電車内のすべての乗客の体に穴があることに気がついた。

夕方のいつもの通勤、通学の時間帯。電車内のいつもと変わらない風景。いつもと違うのは、彼らに穴があいていることだけ。
でも、不思議なことに、彼以外の誰もそのことを気にする様子はなかった。

夜の闇のような穴を彼は見つめた。
人目を気にしながら、底の見えない穴の奥をそっとのぞきこんでみた。

時計の秒針が刻む音を聞く夜更け、彼はその穴のことをよく考える。
今ではそれが何なのか、なんとなくわかる。
それでも、誰にもその話をしたことがない。誰に話したところでわかってもらえるとは思わなかったし、言葉ではうまく説明できそうにもなかった。
でも、説明なんて必要だろうか?
説明書なんて、誰も読みはしないのに。

昔、映画を見ていて、ふと気づいたことがあった。
穴から這い上がるだけなんだ、と。
穴に落ちて、穴から這い上がる。それだけで世界は変わって見える。
闇を恐れてばかりいたけれど、闇は光の輝きを教えてくれる。

穴を見るようになって何日か過ぎた頃、他人に見ていた穴は、気づけば彼自身の体にもその穴が見えるようになっていた。

穴は写真には写らなかった

子供の頃の遠い記憶。
暑い夏の日。学校からの帰り道。
人がこの世から急にいなくなってしまうのが怖い、と友人は言った。
入学してからのほとんどを病院で過ごしていたクラスメートが亡くなった日、友人はそう漏らした。

今日の夜のように、明日になったら二度と会えなくなってしまう人。
彼は、自分がいなくなることが怖いとは思わなかった。
ただ、誰からも忘れられてしまうこと、みんなの記憶の中から消え去ってしまうことが怖かった。

たまに彼は夢を見た。いつも同じ夢。
自分がこの世を去った後、自分の葬儀に自分だけが参列する夢。
夢から覚めてからも、世界にたったひとり、自分だけが取り残されたような気持ちになって、彼はふとんの中で静かに泣いた。

今日の夜のことも、そのうち忘れてしまう。でも、忘れることができるから、明日のことを覚えていられるのかもしれない。

穴は、彼らの、というか、僕らの時間のすべてなのだと思った。わからないけれど、そんな気がした。
無声映画のような断片的な映像。もしかしたら、それは過去の出来事かもしれないし、これから起こる未来のことなのかもしれない。

人々が忘れてしまった膨大な記憶はどこへ行ってしまうのか、疑問に思っていたけれど、穴はそうした記憶を忘れずに保存してくれているのかもしれない、そう思った。

忘れてしまったわけじゃない。
だから、ふとした瞬間に思い出せる。

病院で毎日を過ごしたクラスメートも、忘れられてはいなかった。
彼や友人の記憶に残っている限り。
誰かの穴の中に、その姿が残っている限り。

帰り道、夜空を見上げる

戻れるとしたらいつに戻りたい?
突然聞かれた言葉に、少し考えるふりをしてから答えた。

戻りたくない。

時間が戻って得られることよりも、失うことに怖気づく。
何も持っていないと思っていたけれど、今の自分が二度と手に入らないもののように思えてくる。
それに、たとえどんな道を選び直したとしても、結局、同じ所にたどり着くような気がするから。

閉じられていく可能性。夜の長さだけが自分を守ってくれるような気持ちになる。

僕らはただ、今流れている時間を眺めることしかできない。
夜が流れ、朝が来るのを、踏切を通り過ぎる電車みたいにただ眺める。
特急のように一瞬で通り過ぎていく感情もあれば、長くとどまる各駅停車のような感情もある。
それらの通り過ぎる感情に、どんな意味があるかはわからない。
けれども、そのひとつひとつの意味に囚われて、夜が明けるまで後悔したり、悩んだりなんてしなくていい。
意味がない、と言われたことに意固地になって意味を見出そうとしたり、無駄と言われたことに必死にしがみついたり、彼の人生はそんなことの繰り返しに費やされてきたからこそ、そう思う。

すべての出来事は、僕らを通過していくだけ。
ほつれた糸を引き抜こうとして、広がってしまった裂け目に泣きそうになっても、感情はいつか通り過ぎる。

人生はチョコレートの箱のようなもの、とはよく言うけれど、明日はまだ包装紙の中に包まれたまま。
開けてみなければ、チョコレートの箱なのかすらわからない。

それでも夜は流れる。

先の見えなかった夜の闇が破れ、朝のグラデーションが街に降り注ぐ。
まるで映画が始まるときのような予感に満ちて、今日がまた始まっていく。

2018年11月18日の朝

今日は誰と会うのだろう?

気づけば、彼に見えていた穴はその姿を消していた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?