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自分を全肯定してくれる他人なんていない  『ジンメル・つながりの哲学』を読んで

 『ジンメル・つながりの哲学』を読んだ。ジンメルとは主に19世紀末から20世紀初頭に活躍した、社会学者である。ウェーバー、デュルケム、マルクスと並んで社会学の祖と言われたりする。

 この本の良いところは、「社会学」という学問が「私」から始まる学問であると解釈しているところだ。「私」から始まり、それが「他者」や「社会」とどう繋がっていくか、それを読み解いていくのが社会学の大きな役割の一つであると説いている。「社会学」とは、「私」を取り巻く身近なものを研究する学問なのだ。

 例えば、社会の最小の単位は1対1のコミュニケーションであるが、だとすると、その自己と他者とのコミュニケーションが成立するには3つの条件が必要だと説いている。

 1つ目は、まず他者に自分の全てを開示することは、できないということ。自分という存在は、断片的にしかその情報を相手に伝達することはできないのである。
 2つ目は、自己とは様々な社会的側面を持っていると同時に、その側面が常にゆらぎを抱えている性質のものであるということ。家庭の自分、学校の自分、会社の自分、趣味を楽しんでいるときの自分、それぞれ自分はその場面に沿った振る舞いを行う。ただし、その側面は常に別の側面を見せる可能性を持つという、ゆらぎをもった性質である。
 3つ目は、自己と社会的側面が完全に一致することはないということ。私たちは様々な社会と関わりをもつことになるが、人格的側面とある特定の社会的側面が完全に一致することはないのである。
 
 この3つの条件を通じて見えてくる「私」とは、どんな存在なのだろうか。まず、ジンメルは「私」とは社会的関係から生成されるものであるが、だからといって、「本当の私なんていない、社会的役割の振る舞いがそれぞれあるに過ぎない」と考えることを否定する。しかし、「本当の私」があらゆる社会的側面から免れたところに存在するわけでもない、と説く。

 「本当の私」とはその社会的側面の中で、今ある社会的役割とそれ以外の社会的役割の相互が自分の中でバランスが取れていて、それが他者にも理解されたときに生じる「内的な確信」であると説明される。
 つまり、一つ一つの社会的役割をこなすと同時に、それ以外の社会的役割があることを他者に了解してもらい、さらに他の社会的役割を常に模索できる環境があるところに、「本当の私」の可能性があるということだ。

 このエントリーのタイトルは「自分を肯定してくれる他者なんていない」である。自分と社会が完全に一致することがない以上、自分を全肯定してくれる居場所なんてないし、また全てを承認してくれる他者もいないのだ。
 しかし、だからと言って「誰も自分のことをわかってくれない」「本当の居場所なんてない」とニヒリズムに陥る必要はない。「私」が常に「他者」や「社会」と関わりを持とうとする意志がある限り、「私」という存在はそのつながりによって起こる相互作用によって、確たる「私」を築く可能性に開かれているのである。

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