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日本の醜さについて 都市とエゴイズム

 たしかに、建築からモノゴトを見たことはなかった。

 何年かすると、見たこともない街がそこに出現する。
 渋谷や丸の内など、いつの間にやら様相が変わっていて、ぼくもきょろきょろしてしまうほど。
 著者井上章一にすれば無節操なというところだ。
 著者井上章一はかつて建築家を目指していて、世界中を見て回り、イタリアの建築物に傾倒しているという。
 何を言いたいかと言うと、『日本人には強い自我がない。欧米人とくらべれば、自己主張は苦手である・・・良く言えば、調和を重んじる。悪く言えば、主体性がない』? ウソでしょ! 建築物を見よ。景観を無視して好き勝手に建てているじゃないか、と。

 ポーランドは第二次大戦で廃墟になったが、絵などを元に、かつての街並みをひび割れまで含めて再現させた。イタリアは、爆撃を受けたとたん、ローマを守るために連合軍に降伏することを即決めた。
 そのローマを占領し続けたドイツですら、絨毯爆撃の被害を受けて廃墟と化したドレスデンを元に戻した。
 ところが日本は、東京や大阪が焼け野原になろうが、どうなろうが戦争を続けようとした。
 実は、京都が無事だったのは、単に次の原爆投下予定地だったからにすぎないことが分かっている。つまり、京都という日本が誇るはずの古都が焼け野原になっても日本は戦争を続けるつもりだったのだ。
 実際戦後、京都もビル街へと変身している。
 イタリア人と日本人の違いはなにか、と著者井上章一は問うている。

 著者井上章一が非難する坂口安吾という大作家は、機能優先で街並みなどバラックで十分とした。戦時下の言い分ではあるものの、実は、ぼくも機能優先的な考えを持っている。
 もともと日本は地震大国、江戸時代は火事と喧嘩は江戸の華と言われ、常に廃墟化するお国柄で、より安全、より清潔、より機能的に建築物ができればいいと、そういう国民性なのかと思っている。
 とはいえ、同じ地震大国のイタリアがなおさら街並みを維持しようとしているのか説明がつかない。

 戦時下と言えば、大蔵省(現財務省)は国がバラックでいいとした戦時体制の中で自分たちは鉄筋コンクリート造りの役所を抜け駆けで建てていた。なるほど、強い自我がないわけでもなく、自己主張が苦手でもない。
 逆にエゴイズムが際立ってはいるよね。

 近代化は、少なくとも建築を見る限り、日本が世界一だろうと著者井上章一は皮肉交じりに言う。
 各国も外観を残して中身をくり抜いてでも街並みを残そうとする努力を捨てて、次第に建築の近代化を進め始めているらしい。日本はそうした面で先進国であり、技術輸出が可能になっている。

 さて、みなさんは、どう思いますか?

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