見出し画像

夏の淡雪が消えるまえに 第4話

朔耶さんと会話できるようになって少し舞い上がっていた僕は、落とした勾玉のことをすっかり忘れていたことに気がついた。それが手元にないと不安で探しにいったのに、「この前はできなかったことができた」という小さな自信をつけた僕は、「また、探しにいけばいいか」と少し楽観的に考えられるようになっていた。

彼女と僕は、あの日から頻繁に顔を合わせるようになった。
散歩が日課になった僕のもとへ、朔耶さんはいつもふらりとやってくる。だいたい僕らが落ち合う場所は、出会いの場でもある小川。雑草がおいしげる斜面に僕が寝転がっていると、「なっちゃん、みっけ!」と朔耶さんが来るのだ。

彼女の出で立ちはほとんど変わらず、白っぽいワンピースに麦わら帽子を被っていることが多い。特に約束をしているわけではなかったけれど、僕はその時間が待ち遠しくて、だいたい毎日そこへ足を運んでいた。

朔耶さんは物しりで、この土地のことや草木の名前、動物の生態、野菜の育て方とか、とにかくいろんなことに、とても詳しかった。あるときは小川の斜面に座ってその話に耳を傾けたり、あるときは山のふもとまで連れていって実物を探しにいったりした。

今日もいつも通り、川の近くの斜面に寝そべりながら、ぼんやりと空を眺めていると、「なっちゃん、おはよ」という朔耶さんの声が聞こえてきた。僕が声のする方を見てみると、そこにはニカッと笑う彼女の姿。

「……それ、なんですか?」
「なにって見たら分かるやん。つ・り・ざ・お!」

いや、それは分かるんだけど……と思いながら、僕は体を起こし、背中についた土を払った。朔耶さんの両手には釣竿とバケツ。その出で立ちをみれば、いまから何をするのか検討はついてしまう。

「……どこで釣るんですか?」
「おっ!なっちゃん、乗り気やん」
「だって、僕が嫌っていっても朔耶さん、絶対連れていくじゃないですか」

「あ、バレた?」と楽しげに笑う彼女は、「じゃ、いこか」と僕の返事も聞かぬまま、山の方へと歩いていく。その後ろ姿を追いかけて、「なにが釣れるんですか?」と尋ねると、そこから朔耶さんの釣り講座が始まった。僕は、流れる景色を横目に、川魚について熱心に語る彼女の話に耳をかたむけた。おだやかで、緩やかな、誰も傷つかない時間だ。

僕たちは一緒の時間を過ごすようになって、まだ数日しか経っていない。でも、この数日間で彼女がどういう人物か少しは分かってきた気がする。

まず、見ての通り性格は元気で明るい。笑顔は夏の太陽のようにまぶしく、青空と白い雲がよく似合う女の人。黙っていれば清楚な、綺麗なお姉さんという感じだけれど、残念ながら(というのは失礼か)、朔耶さんはおしゃべりが大好きな人だ。一緒にいると、だいたい朔耶さんがしゃべっていて、僕がその話を聞いていることが多い。最初は違和感があった関西弁も、いまではすっかり慣れてしまい、たまに僕もつれられて関西弁になってしまうときさえある。

あと、朔耶さんの強引なところにも、すっかり慣れた。家にこもりっきりだった僕だけど、彼女のおかげでここ最近は毎日外に出かけている。一日中家にいたときには鬱々とした、暗い感情が頭の中を支配していた。それが外に出て、新鮮な空気を吸い、自然に触れて、体を動かすだけで変わる。空が高く、開放感のある、この自然にかこまれた緑の中を歩いていると、心がふわっと軽くなり、モヤモヤとした感情はひっそりと影を潜めた。

「あ、着いた!ここ、ここ」

朔耶さんの案内でやってきたのは、山の中にある川だった。いや、川というより、そこは小さな池のようになっていて、意外と深そう。水が澄んでいるから、水中を悠々と泳ぐ魚たちの姿もよく見えた。

木々に囲まれたこの場所はとても静かで、風が吹くと、そよそよと葉っぱが揺れる音がする。ときどき聞こえる鳥の鳴き声と、水の音。その音それぞれが心地よくメロディを奏でて、体中が優しいなにかで包まれているような感覚だ。

「ここ、よく釣れるんですか?」
「さあな。うちも、ここに来るん初めてやし」

ガクッと芸人ばりに肩がかたむいた。いやいや、朔耶さんらしいといえば、らしいけど……。こんな、いかにも穴場の釣りスポットみたいなところに連れられてきたら、めちゃくちゃ魚が釣れそうと思うもんだけど、まあ、あまり期待はできないということか。僕が一人でブツブツと言っていると、朔耶さんは「ん」と釣竿を差し出してくる。

「釣れたらラッキー、釣れんかったらアンラッキーやったってことや。別に釣れんくてもええやん。それよりも大事なのは、いま、この瞬間を楽しむことやで」

朔耶さんはそう言って、「な?」と笑いかけてくる。僕は彼女から釣竿を受け取ると、「そうですね」とつぶやいた。結果ばかりに視点が向いていた自分に苦笑が漏れる。

そのあと、簡単に釣り方の説明(「ポイッと投げて、待っとくだけや」という本当に簡単なものだった)を聞く。糸の先端についてるのは小さな釣り針だけ。えさはない。念のため、朔耶さんに「えさは?」とで聞いてみたけれど、「その辺に虫がおるんちゃう?」なんて言われる始末。……どうやら彼女は、はなから魚を釣る気はないらしい。

まあ、いいか。

こんな自然に囲まれた場所で、のんびり過ごすだけでも、心は満たされそうだ。そう思った僕は、大きな岩に座って先に釣り糸を垂らしている朔耶さんの隣にしゃがむ。

「どっちが先に釣れるか競争しましょうか?」
「なんや、なっちゃん勝つ気満々なん?」

彼女はこちらを見ないまま、ハハッと声をあげて笑う。その隣にいる僕も、つられて同じように笑った。

偶然であったこの人は、本当に不思議な人だった。自由奔放で、掴みどころがなくて、するりと人の心の中に入ってくるのが上手な人。会ってまだわずか数日だというのに、僕はどんどん心惹かれていた。美人な人、というのもあるだろう。年上の女性、というのもあるだろう。だけど、それよりも、もっと違う何かに、僕は惹かれているのだと思う。

それからしばらく、お互い黙ったまま、ただひたすら釣りに集中した。なかなか釣れない。えさがないから、仕方ないといえばそうだけど、水中で悠々と泳ぐ魚たちを見ていると、一匹くらいは釣りたいなという気持ちがわいてくる。

そのまま1時間くらい経ったころだろうか。静かにその時の流れを楽しみながら、ふと隣を見てみると、彼女は神妙な顔つきで森の方に目を向けていた。

「どうしたんですか?そんな顔して」

僕の声にハッとした朔耶さんは、いつもの表情に戻り、「ごめん、ごめん」と苦笑しながらこちらを向く。

「全然釣れへんな。やっぱ、えさがないと釣れんもんやわ」
「でしょうね」

朔耶さんはぐーっと伸びをすると、「もう帰ろか」と言う。いつもと比べて、今日はあっさりと帰るみたいだ。仕方なく僕もそれに倣って立ち上がり、山を降りることにした。

山の麓までやってきた朔耶さんは、「じゃあここでな」と言う。僕はもっていた釣竿を返し、「釣り、楽しかったです」と返した。

「楽しかったって、なんも釣れんかったのに?」

おかしそうに笑う朔耶さん。僕は、彼女がもっている釣竿を指さした。

「朔耶さんは最初っから釣る気なかったですよね。えさも用意してなかったし、なにより、その釣竿……釣り針がついてないじゃないですか」

僕がそういうと、朔耶さんは「ああ、バレてたんか」といたずらが見つかった子どものように笑う。

「魚釣っても、どうせ食べへんし。ああして、ぼーっとしてるだけでも十分楽しいから」
「どっちが先に釣れるか競争しようって言ったのに」
「なっちゃんが、な。うちは『しよう』とは返事してへんからな」
「まあ、そうですけど……」

釣り針がついていないのに気づいたのは、ついさっきのこと。山を降りる途中、彼女の後ろ姿を見ているときに気づいた。そもそも、釣る気がない釣りに、どうして僕を誘ったんだろう。謎だ。

「ほな、またね。なっちゃん」

手を振る朔耶さんに「また、今度」と言い、僕も手を振り返し、くるりと背を向けて家がある方へ歩いていく。別れのときは、いつも僕が見送られてその場を立ち去る。一度だけ振り返ったことがあったけど、そのとき満面の笑みで手を振り続けている彼女を見て、なんだか気恥ずかしくなって、それからは一度も振り返ることなく岐路につくのが常だった。

だけど、今日の朔耶さんはなんだか、いつもとちょっとだけ違うような気がして、気になった。立ち止まった僕は、すぐに後ろをパッと振り返って聞こうとした。

「あの、朔耶さ……」

途切れる言葉。

「え……?」

そこには誰もいなかった。ただ、風に吹かれてそよそよと揺れる木々だけがそこにあり、笑顔で僕を見送る彼女の姿はどこにもない。僕が背を向けたのは、ほんの一瞬のことだった。慌てて辺りを見渡してみる。見通しのいい田んぼの方には誰もいない。いま通ってきた山の方にも目を向けたけど、彼女らしい人影はどこにも見当たらなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?