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夏の淡雪が消えるまえに 第3話

遠くの方でせみの鳴き声が聞こえる。重いまぶたを開けて起き上がり、一番に聞こえてくるその音に、今日もまた一日が始まったと実感する。

ミーンミーンと鳴きつづけるせみの一生は、長い時間を土の中で過ごすのに、地上に出てからの寿命はわずか1ヶ月らしい(ずっと1週間だと思っていたけど、最近読んだ本に実は1ヶ月くらい生きられると書いていた)。

何年間も土の中にいるのに、地上にでてからの生は短い。オスは何度も交尾ができるけど、メスの交尾は一生に1回。必然的にオスの中には一生に一度も交尾をしないまま、死んでしまうせみもいるということだ。それってどうなんだろう。「俺は子孫も残せないまま、一生を終えるのか」なんて思うせみもいるんだろうか。地上に出てからの寿命がわずか1ヶ月しかないなんて、「やりたいこと、やりきれねぇわ!」と思うせみだっているかもしれない。

「1ヶ月の人生、かぁ……」

夏の暑い朝。早朝から懸命に鳴きつづけているせみの声を聞いて、僕はなにやってるんだろうと気分が沈む。情けない自分から脱皮して、堂々と自信をもって前を向ける人になりたい。そんな思いはどこかであるのに、「どうせ自分にはできない」と諦めている僕もいた。

布団のそばにある小さなテーブルを見る。勾玉のストラップがついた鍵は、いつも寝る前にそこに置いていた。お守りのように大事にもっていたそれは、おばあちゃんの形見の品。

「……形見、だもんなぁ」

ポツリと呟く。口に出したら、余計にそれが大事なものに思えてきた。
僕は「あ~~~!」と声を上げ、寝ぐせがついたボサボサ頭を掻きむしると、気合を入れて立ち上がった。

昨日は見つからなかったけど、もしかしたら見落としているところがあるかもしれない。そう思った僕は、ポケットに携帯を入れて自分の部屋を飛び出した。

**********

朝ごはんを食べたあと、また昨日と同じようにあの日通った道を歩く。
今度はよく目をこらし、家の側に落ちていた長い棒で雑草をかきわけながら、目的のものを探した。
今日は風が吹いているから、昨日ほどの蒸し暑さはない。カラッとした、そんな天気だ。

道の脇をあちこち探しながら歩いていると、いつのまにか、あの小川にたどりついた。澄んだ、透明の水が流れる川は、今日も変わらず綺麗だった。
「はぁ……」と小さくため息をついた僕は、小川の斜面に座りこみ、近くにあった石を川に向かって投げる。ぽちゃんという音を立てて、吸いこまれるように川の中に落ちた石。その音がなんだか心地よくて、僕はまたもう一つ石を投げいれた。

「おーい」

ぽちゃん、ぽちゃんと石の大きさによって変わる音を楽しんでいると、突然後ろから声をかけられた。
驚いてバッと勢いよく後ろを振りかえると、そこにいたのは一昨日、この小川で出会った朔耶さんという女の人だった。

「あ、やっぱり!こないだ、ここおった子や」

彼女はニカッと白い歯を見せて笑い、僕のとなりにやってきた。出で立ちはこの間と変わらない、白のワンピースに麦わら帽子という格好だ。

「あ、こんにちは……」

今度こそ、ちゃんとした会話をしないと、と思った僕は、とりあえず挨拶をしてみたけれど、少し緊張して語尾が尻すぼみになる。
でも、彼女はそんなことは気にしていないようで、僕の隣にしゃがむと、「今日も川、見てたんや?」と尋ねてきた。

「はい。……綺麗だな、って思って」

目の前に流れる川の水面を見つめながら僕がそう言うと、朔耶さんはなぜだか嬉しそうに「ふふふ」と笑う。
僕がちらりと横を方を見ると、立ち上がった彼女はおもむろにサンダルを脱いで、そのまま川の中へと入っていった。
ワンピースの裾をつかんで、川の水をちゃぷちゃぷと蹴りながらくるりと振りかえった彼女が、僕を見つめる。

「なぁ、なっちゃんもこっちにおいでや」

「なっちゃん」という呼び方。楽しそうに笑う顔。伸ばされた白い手に、ドキリとする。やばい、顔赤くなってないかな。

「ほら、はよう」

彼女はそんな僕の心情なんてお構いなし。ちょっと強引な感じはあるけれど、でも、なんだか嫌じゃない。
この間は挨拶もできなかった僕が、今日は挨拶を返すことができたんだ。そんなほんの少しの、小さな勇気が僕の背中を後押しした。

「……虫、いないですか?」

僕がそう尋ねると、朔耶さんはプッと笑って、「なっちゃん、もしかして虫怖いん?」と聞いてきた。笑われたことに、ちょっと心が後退する。

「……はい」

「男なのに」とかそう思われるかもしれないが、怖いものは怖い。僕が少しうつむき加減で返事をすると、「なぁ、なっちゃん」と呼びかけられる。ゆっくりと顔をあげると、そこにはニッと楽しそうな顔をして笑う朔耶さんの姿。

「虫ならよおさんおるよ!」

彼女はそう言ったかと思うと、何か動く物体を両手にもって、バッと僕に見せてきた。突然のことに「うわっ!」と情けない声をだして驚いた僕は、慌てて2、3歩後ずさる。

「アハハ、びっくりさせてごめん、ごめん!これ沢がにやから」

僕のリアクションを見て、肩を震わせながら笑う朔耶さん。笑われているんだけど、なぜだか、僕はそのとき嫌な気持ちにはならなかった。さっきも感じたけど、やっぱり彼女には人を不快にさせない雰囲気がある。
それにしても、「虫ならようさんおるよ」って……そこは、「いない」って言ってくれないんだな。

落ち着いた彼女は、「笑ってごめんな」と言って、スッと僕に手を伸ばしてきた。僕がその手に戸惑っていると、「なっちゃんには知ってといてほしいねん」って言う。

「だって、虫がたくさんおるってことは、それだけこの川が綺麗っていうことやで。こんなに気持ちええのに、見てるだけなんてもったいないやん。大丈夫やって。何もせんかったら、虫も悪させぇへんから」

夏の太陽と、青空と、白い雲をバックに背負った彼女は、とても綺麗に笑う。長い髪をなびかせ、麦わら帽子を押さえながら、それはそれは綺麗な笑みで。

「ほら、なっちゃんもおいで」

もう一度こちらに伸ばされた手。白くて細い、女性らしい手だと思った。僕はゆっくりと、恐る恐る手を差し出し、その手を掴む。彼女の手は、この暑さにも関わらず、とても冷たくて気持ちよかった。

「わっ!」

思いきり手をぐいっと引っ張られて、僕はサンダルのまま川の中へ。一瞬ひんやりとして冷たさを感じたけれど、それは徐々に慣れていって、心地いい冷たさに変わる。

「ほら、気持ちええやろ?」

朔耶さんはカラッとしたこの夏の太陽のように笑い、僕の手をそっと離した。「サンダル、その辺に置いといたらすぐ乾くで」と言われ、僕はサンダルを脱ぐことにした。少しでも陽の光が当たるように、雑草の生えていない地面の上に並べておいた。

素足で入る川は、ごつごつした石や水草が足の裏に当たる感触がする。時折、足をかすめる何か分からない物体にびくつきながらも、朔耶さんのように足をぱしゃぱしゃさせてみた。

……なんだか、楽しい。

今ままでは見ているだけで十分だと思っていたけれど、実際その中に飛び込んでみると、「見ているだけなんてもったいない」という彼女の言葉の意味がよく分かる。「虫が怖い」とかそんなちっぽけな理由で、この気持ちよさを放棄していた自分がちょっと情けない。

青い空に白い雲、緑の田んぼに透明の川。眼前には大きな山が僕たちを見守るかのようにそびえ立っている。自然に囲まれたこの場所は、僕にとって心地いい場所だった。

見上げれば高層マンションが立ち並び、アスファルトの黒い地面がじりじりと追いつめてくるようなあの場所とは全然違う。整えられた無機質なデザインの建物や道が広がるあの場所には、僕の心の平穏は守られなかった。

僕と彼女の出会いは7月の終わり。四方八方からセミの鳴き声が聞こえてくる、まだ夏休みが始まったばかりの頃だった。

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