光る君へ(18)道兼ナレ死の意味を考えてみた・大河ドラマで学ぶ脚本テクニック
大河ドラマ「光る君へ」が面白い。ということで、「「光る君へ」で学ぶ脚本テクニック」と題した動画を作っていくことにしました。動画といっても内容はスライドとテキストなので、noteにも載せていきます。今回は第18回の学びポイントです。
歴史の知識や「源氏物語」については一切触れませんので、予めご了承ください。
今回の学び
道兼の死に方は、なんと「ナレ死」でしたね。
疫病で死んだ他の公卿たちと同じく、彼の死はナレーションでアッサリと処理されました。
完全に予想外で、「やられた」という感じです。
ということで、今回は、道兼「ナレ死」の意味について考えてみます。
キーワードは「罰と赦し」です。
罰と赦し
ドラマでの「ナレ死」というのは、脇役ならともかく、主要登場人物の扱いとしては、普通あり得ないことです。
あえてそれを道兼に用いたのは、どうしてなんでしょうか?
多分それは、道兼の死に対する道長とまひろの反応とセットで考える必要があると思います。
道兼の死に対する道長とまひろの反応を一言で言えば「赦し」です。
道兼の「ナレ死」は、この「赦し」と、おそらくセットです。
つまり、こういうことです。
道長あるいはまひろが、道兼に直接、あるいは間接的に復讐する、つまり「罰」を与えるようなことは、二人のキャラからいって、ありえない。
かといって罪深き人生を歩んできた道兼に、いくら改心したとはいえ、無条件に「赦し」を与えるのも、ドラマ的にバランスが取れない。
だからその代わりに、ドラマ的には最上級の「罰」を与えることでバランスをとった。「ナレ死」という、「キャラクターの否定」によって、道兼に「罰」をあたえた。
今回の道兼の「ナレ死」には、そんな意味が込められていたように思います。
ドラマ的な罰
「ナレ死」がドラマ的な「罰」だというのは、兼家・道隆の死に方と比較すれば明らかです。
兼家と道隆は、そのキャラクターに見合った死に方が丁寧に描かれてていました。
兼家は源明子に呪詛されて息絶えるという、その生涯を象徴するような、ドラマチックな死に方をしました。
マジメだけれども父・兼家ほど才覚に恵まれていない道隆は、愛する妻に看取られるという人間くさい死に方でした。
この二人に比べると、死に方を描写することなくドラマから退場させるというのは、これ以上ない「キャラクターの否定」であり、最上級の「罰」です。
道長の赦し
ところで、道兼役・玉置玲央さんのインタビューによると、最後に道長が道兼を抱きしめるシーンは台本にはなく、柄本さんの提案で追加されたそうです。
これは私も、いち視聴者として、素晴らしい変更だったのではないかと思います。
なぜなら、抱きしめることによって、道長の「赦し」が、言葉を超えて明確に伝わってくるからです。
道兼の生涯
父・兼家から得られなかった愛を、かつて自分が虐待していた道長によって与えられる。
道兼を悪役と見れば、皮肉で哀れな最期ですが、ひとりの人間と見れば、救いのある最期だったと言えます。
まひろの赦し
一方、道兼の死を知ったまひろは、こう呟いて、母の形見の琵琶を弾きます。
まひろは第五回で、母の敵である道兼のことを「生涯呪う」と言いました。しかし、道兼が死んでしまっては、恨んだり呪ったりしても意味がありません。
「罪も無念も」「消えますように」というセリフには、自分自身に言い聞かせるニュアンスも含んでいるのかもしれません。
いずれにせよ私には、諦めを含んだ「赦し」のセリフだと感じられました。
最後までお読みいただきありがとうございました。
背景画像:
From The New York Public Library https://digitalcollections.nypl.org/items/510d47e3-fe62-a3d9-e040-e00a18064a99
動画
蛇足メモ
デウス・エクス・マキナ
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