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大宮から九品仏へ


報道の仕事をしている間に、私の住まいは大宮から九品仏に移りました。自由が丘と言われるエリアです。

東京のことも大分わかったきたことと、収入も安定してきたので、せっかく東京で一人暮らしをしているんだから、ということで九品仏。

とはいっても、この辺りは人気のエリアでもあるので、家賃は高い…。
な・の・で、私は九品仏の古~いアパートに引っ越したわけです。

お隣に大宅さんが住んでいたのも個人的には安心材料。家賃は振込でもいいけど、手渡しでもOKというほっこり感。余計なかかわりを持ちたがらない人もいると思いますが、知らない土地で暮らしているので、こういう形でも知っている人がいることが、私にとっての一つの安心でした。

しかも、毎回、何か食べ物をくれるんです。煮物やひじきとか家庭の味で、これまたほっこり。

その後、東京時代は九品仏から尾山台の辺りで生活をすることになります。本当に良いところでした。ただ、一つ残念なのは、家の近くに新日本プロレスの道場があったのに、当時、全く興味がなかったこと。

あぁ何やってんだ私!

ハッタリ再び!

さて、仕事ですが、テレビの仕事を離れてから、ご縁あって某飛行機会社の機内誌(通販誌)の制作進行管理をする仕事に就くことになりました。

今思っても、あの当時の私は運が良かったと思います。これからどうしようかなぁと思っていたところに降ってわいたこのお話。

当然(←当然って)印刷のことなんて全く知りません。
校了という言葉すら知らなかった…。
今思うとよく飛び込んだと思うけど、ある程度ハッタリと勢いは人生には必要です。(でもこの二つはセットの方がいいですw)

さて、どんな仕事だったかというと、通販誌を作るために、飛行機会社の中に商品を選定するMD(マーチャンダイズ)がいますが、そのほかに外部のMDさん、MD会社さんがいます。さらに、印刷をするために2社、時に3社、大きな印刷会社さんが入っていました。そこに紐づくようにクリエイティブ(デザイナー、コピーライター、カメラマン、スタイリスト…etc)のチームがあります。

さらに機内誌の他にDMで送る通販誌もあり、データ管理や撮影、商品管理などありとあらゆることの調整をするのが私の仕事でした。同じ仕事(彼女はDMの通販誌担当)をしていた同僚…いや戦友は今でも心の友です。

とにかく、人もデーターも商品も複雑に、且つ緻密にスケジュールの調整をしないといけません。私たちがHUB的な役割だったので、全ての情報が集約され、個々に必要な情報を振り分けていくという感じです。

私以外の人は全てプロ中のプロ。上は60代の方で一番年下は私です。
しかも、何度も言いますが、私、ド素人でした…。
そんな私が皆に指示を出さないといけない。
怖いもの知らずというのは本当にコワイ…。

とにかく必死で仕事を覚えながら、進めました。
もう最初はなりふり構わず。

とにかく聞く、聞く、聞く。

ほら最初のうちは、みんな教えてくれるでしょ(笑)
もう今しかないと思って、すぐ聞く、そして実行。
失敗したら、また聞く、修正。

の繰り返し。
今思うと笑えるのは、私は自分が素人だということを必死に隠していたつもりだったけど、コレ、どうみても、素人(笑)

でも、みなさん、本当に寛大で私を一人前に育てるために、ありとあらゆることを叩き込んでくださいました。

さて、エジンバラから東京へ、テレビから商業印刷へ。テレビの仕事も、印刷の仕事も本当にハードで、てっぺん越えなんかも普通でしたし、テレビの時なんかは「仕上がり36時です!」って言われたりするような感じでした。
(36時って何時よって話です。)

ここにきて、やっと仕事の面白さを知り、東京に出てきた意味を思い出し、ある意味でやっと東京の生活がスタートした!そんな感覚を掴んできたところでした。

体の異変

仕事も楽しくなり、交友関係も広がり、恋愛もし、趣味も見つかり、自由が丘生活を楽しみ始めた矢先、私の体に異変が起きました。異変とは腹痛です。

正確にいうと、実は随分前から時々、寝ていても起きてしまうような腹痛はあったのです。ただ、それまでは、年に1回程度のことだったので、それほど気にしていなかったのですが、その回数がどんどん増えてきました。

数カ月に1回になり、1ヶ月に数回になり…。突然その腹痛は始まり、始まってしまうと7~8時間くらい悶絶。寝ていても何をしていても痛い。痛みで吐いてしまったり。そして、時間が経つと嘘のように痛みが引いてしまうのです。

これはただ事ではないなぁと怖くなって、病院にも行きました。でも最初の病院では便秘と言われ、次の病院ではストレスと言われ…。痛い時に来て下さいって言われる始末。

痛いときは動けないのよ~!!!!!って思いながら鎮痛剤で何とかしのいでいました。

しのいでいましたが、もう何ともならず。ある日、このままだと死ぬな…と思うほどの激痛。でも、こういう時って救急車を呼んでいいのかなぜか迷うんです。

で、友達にSOSをし、友達が救急車を手配してくれました。

健康優良児で風邪すら引かない、学級閉鎖になりそうなときも咳一つでない(バカなのか?)、私の初めての手術&入院です。

結局、私の病気は卵巣嚢腫でこの時は捻転していたそうです。先生から「痛かったでしょ~。僕なら我慢できない」と割と軽く言われたけど(めっちゃいい先生でした)、本当~に痛かった。

手術自体は成功し、10日間ほど入院。ただ捻転時に腹部で大出血をしていたようで極度の貧血になり、その後、3ヶ月ほど療養生活に入ることになりました。

やっと、本当にやっと、東京生活を掴み始めたところだったのに…。


こぼれ話

救急車で運ばれた時のことです。私が住んでいたアパートは2棟同じような建物が並んでいました。

こともあろうか、救急隊の方は別の棟の私と同じ号室のドアの前で「大丈夫ですか~?」って声をかけているじゃないですか…。

パニクリながらも「こっち、こっち」と呼び何とか救急車へ(笑)。
救急車って意外と狭いという記憶だけあります。

その後、病院で検査するので入院と言われた時(まだCTなどの検査の前)は、先生に「金曜日に飲み会があるから入院できない」とゴネたのは私です。

スミマセン。

そして退院時。もう貧血を治すだけだった私に先生が「よく食べて、良く寝るのが一番の薬」と言うのです。

空気にもカロリーがあるんじゃないかと思うくらい、すぐ太る私に「よく食べて良く寝ろ」とは…。一応ここでも太るから・・・と軽くゴネて先生に一蹴されました。

私は生理不順や生理痛もなく過ごしていましたが、こんな結果になりました。今や婦人科系の病気は3人、2人に一人とも言われます。婦人科って最初は抵抗があるけど、なんかおかしいな?と思ったら早めに受診されることをおススメします。


ケア提供者(医療・介護・福祉・対人支援・教育・家族の介護)の方のための心身ケアのサポート。
カウンセリング、コミュニケーション法、タイムマネジメント、マインドフルネス、腰痛対策…etc
ケア提供者だからこそ、ご自身のケアが必要です。




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