mixi「一郎の日記」を振り返る⑤ 2006/10/23(月)~

万葉集のブログと一握の砂のブログに書いてきた自分のコメントを
noteにまとめる作業をしてきました
それらのブログやメルマガ発行とほぼ並行して
mixiに日記を書いてきました
Twitterを始めたことで今ではmixiは全く利用していません
noteでの作業を通してmixiに書いて日記を
今一度読み返してみたくなりました

2006/10/27(金)

2006/10/27(金) 午後 4:43 mixi「一郎の日記」 短歌

2006/10/27(金)
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 一日で消える一郎の日記

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Yahoo!ブログ“それぞれの「一握の砂」”より

歌集「一握の砂」 29.森の奥より・・・
啄木

森の奥より銃声(じうせい)聞ゆ
あはれあはれ
自(みづか)ら死ぬる音のよろしさ

我がことをたとえ知る人あらずとも
生きよ生きよと
自らに喝
(一郎)'04.2.1

自殺者が3万人を越えている
「改革」言うも
空しく聞こゆ
(一郎)'06.9.23

資料参考「青空文庫」 http://www.aozora.gr.jp/

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きのうの日記にコメントがありました。その返事を今日の日記にさせていただきます。
そのつもりで書きましたので返事が長くなりました。mixiのこれがいいところか悪いところか・・・コメントの字数制限がないことです。
それでは日記への返事を転載します。

ありがとうございます。母がリヤカーで花売りの行商をしていたとき、私は一度も手伝ったことがありませんでした。それが今になって悔やまれることのひとつになっています。屋形原といったでしょうか・・・もう記憶はあいまいになっています。バス停で言うと「病院下」だったか・・・そのすぐ近くの農家の離れの一室を借りて家族4人住んでいました。一番上の姉は、まだ長崎に居た頃に中学を卒業して・・・当時は集団就職といってましたね・・・名古屋の織物会社で働いていました。
まだバス通りも舗装されていませんでした。バラスをまいた道路でした。リヤカーにはいくつのバケツに花を入れて運んだのでしょうか、水が入っているので重たかったと思います。
バス通りを高宮の方へ出て平尾から薬院に出たのか、高宮をまっすぐ上って日赤通りを渡辺通り一丁目まで出て薬院に回ったのか・・・どんなコースを歩いていたのかは聞いたこともなく、知らなかったことにあらためて気がついたありさまです。

ところが偶然というのは信じられない出会いをもたらしてくれることがあるものです。あまりの偶然に、ともすればそれは神の意志、運命だとともすれば信じる人がいても不思議ではない・・・母のことでそんなことを体験しました。
数年前、あるホームページの掲示板の投稿文に「島原」という地名を見つけました。私は島原の出身ではありませんが、島原から諫早の方へ戻ったところに「神代(こうじろ)」というところがあります。戦後、平壌から引き揚げてきた家族は、父の母方の郷里をともかくの仮住まいにしました。そこで私は生れたのです。島原という地名は、私にとって神代を思い出させるキーワードでした。それで私は、投稿した方のホームページを訪問しましたのでした。
掲示板に投稿された方のご主人の出身地が島原ということでした。奥様のご出身は福岡市・・・そこまでならよくあることです。その方のお姉さんが、私の母から花を買ったということでした。私の苗字からそれと分かったというのです。それだけではなく奇遇なことがもうひとつありました。
私が高校生になったころ、母はもう花の行商はやめていました。貸しふとん店で事務や布団の縫製をしていました。私の家も「病院下」の貸家の一室から市営住宅に移っていました。
その市営住宅は隣接して新築の住宅が並んでいたと思います。そして私の母から花を買ったことを覚えていた方は、その住宅に住んでおられました。ある時期父は、その区域の町内会長をしていました。そのことも覚えておられました。
その方の妹さん・・・つまり私が掲示板で出会った人が今、事情があってその家に住まれています。
今度はその方との縁の話になりますが、その方は島原でパソコン教室に通われていました。ホームページの様子からその熱心さが伝わってきました。パソコンの周辺機器の操作にも意欲的に取り組まれているのが分かりました。プリンター、MDからのデーター取り込み、ビデオやCDの編集などなど・・・私が苦手にしていることにも熱心でした。あとで分かったのですが、高校生時代に放送部に所属し、テープ編集もなんなくこなしていたということでした。私はといえば機械オンチ、というか面倒なことが嫌いな性格なのです。
京都市を放送エリアとするNPO法人のFM放送局があることを知り、番組会員として自分の番組制作を始めようと思ったとき、福岡に戻られていたその方に協力をお願いしようと思いました。週1回、3分の詩の朗読番組と月1回、15分のクラシック音楽番組の制作を始めました。
私がすることは、詩の朗読番組では詩の選定とBGMの指定、クラシック番組では曲の選定とナレーションの指示・・・あとの実際の録音、編集、そしてCD作成のすべての作業を一人で引き受けていただきました。それは並大抵の努力ではなかったと思います。自分のつくりたい番組を自分でつくって放送できる・・・私にとっては夢のような機会に思えました。自宅周辺で聴取可能なミニFM放送のことは知っていましたが、市の周辺をカバーする放送局で自分の番組を制作できるとは夢にも思っていませんでした。そのことが技術的にサポートしてくれる人がいたおかげで実現することができました。

2つの番組をスタートさせたのは2年前の9月と10月でした。その翌年の2月から新たに3つの深夜番組を始めました。その内の2つの番組の編集も引き受けていただきました。
現在は、2つの深夜番組の放送を続けています。

掲示板で見かけた「島原」という地名が、私をその人のHPに導いてくれました。パソコンの勉強をされていたこと、福岡に戻られて比較的自由になる時間があったこと、それがラジオ番組の編集をお願いすることにつながりました。
そのつながりの中で、ご姉妹、あるいはお母様が、母とも父とも縁があったことを知ることになります。

不思議な縁とも言えますが、その縁のひとつひとつは可能性のあることなのです。いくつかの縁がつながることもまた可能性のひとつ。そのような無数の可能性が、あるとき可能になことがある・・・それがインターネットの世界だと私は思います。
縁も不思議なものではなく、出会いがあるところには様々な無数の縁がすでにあるのです。
縁が縁として意識されるのは、「思い込み」です。何らかの感情が動いたとき、縁は縁として意識され縁が「生れ」ます。

mixiは人のつながりを容易にしてくれます。そこには無数の縁があるでしょう。でもなにもせずに縁が縁としてつながっていくことはありません。
どんな縁が「生れる」かは、mixiでなにをしたいか、その目的意識をどれだけ強く持っているかどうかにかかっているような気がします。
何もしなければ何も生れません。何かしたとしても何も起こらないかもしれません。何も起こらないとしても、何かした自分自身には何かが起こっているはずです。もし何かが自分の中で起こったなら、変わったならそれは素晴らしいことだと思いたいのです。人が変わるということは、それだけで素晴らしいことなのです。変わることができた自分を誉めてやりたいのです。誰もそれを見ていなくとも、知らなくとも、自分が分かればそれでいいのです。
そして、インターネットの世界では、誰かがどこかでそんな私を見ていてくれているのです。それを私が知らなくとも、きっと誰かが見ているのです。インターネットの世界を、その可能性を信じています。

「私もお母様の売る花と、かつて何処かですれ違った事があったのかも知れません。」・・・pritomoさんが、コメントに書かれた文章の一部です。
実際に会った母の縁の話を書いてみました。そのことは後で分かったことでした。新しい縁が出来て、その縁がもっと以前にもつながっていたことが分かりました。
これからもいろな縁に出会うでしょうし、縁に驚き縁に感謝するでしょう。

コメントありがとうございました。お返事を今日の日記にさせていただくつもりで長く書かせていただきました。
いつも日記に何を書こうかと夜の9時ごろになっても悩んでいるのが実情です。pritomoさんのコメントのおかげで、今日は悩まずに済みました。ありがとうございます。
コメントへのお返事から話しがそれ、まとまらない文章になりましたがお許しください。

確認せずにそのまま投稿します。誤字脱字があるかもしれません。それもお許しください。

それではまた・・・ごきげんよう。

お読みいただきありがとうございます。
同じことが多くなるのは年のせいだとお許しください。
それではまたあした・・・ごきげんよう。

一郎

3分間ラジオ番組が出来るまで
http://www.geocities.jp/agasa888/razioseisaku.htm

気ままな人生1人旅(3年目)
http://blogs.yahoo.co.jp/agasa888

2006/10/26(木)

2006/10/26(木) 午後 10:59 mixi「一郎の日記」 短歌

2006/10/26(木)
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 一日で消える一郎の日記

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歌集「一握の砂」 28.わが髭(ひげ)の・・・

啄木

わが髭(ひげ)の
下向く癖(くせ)がいきどほろし
このごろ憎(にく)き男に似たれば

できるなら髭剃りやめて伸びるまま
年経るごとに
ものぐさに慣れ
(一郎)'04.1.31

伸びるヒゲ
なのに頭は薄いまま
ヒゲも伸びるな剃るのが手間だ
(一郎)'06.9.22

資料参考「青空文庫」 http://www.aozora.gr.jp/

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きのうは、短歌メッセージ「こどもたちへ」その2ということで以前書いておいた分の残りをここで紹介しました。
それはそれとしてよかったと思っています。とくに長年私を苦しめた性癖、快楽の欲望の本質にあるものは何かを歌で問い続けていたことは、いまその歌を読んでも納得することばかりでした。
自分自身である壁を乗り越えることができた証としての歌の数々だと自信を持っているものです。
それらの歌を紹介できたのはよかったのですが、私としては長い文章を書くことから逃げでした。もう書く時間がなくなったこともあります。正直言って少し寝不足気味になって来ました。事故の教訓から、その後早く寝る習慣をつけていましたが、mixiを始めてから寝る時間がすこしずつ遅くなっていきました。
この日記を毎日更新、長い文章でという課題を自らに与えたからなのですが、そのうちに要領が分かってくると思っています。もっと早く作業が終わるようになると思います。
書くことでしか課題はクリアーできません。マイミクシィをたどっていろんなかたのプロフィや日記を目にして、それぞれの表情を持つ長い文章に出会えます。それらの文章が私の励み、目標になります。
きのうのように書くことから「逃げる」ときもあるかもしれませんが、いま苦しんでいることが笑い話になるときが来るようにがんばりたいと思います。

このmixiでは、啄木の歌集「一握の砂」の全551首に合わせて自分の歌をつくろうと呼びかけています。歌づくりの仲間がひとりでも増えてくれることを願っています。そのためにこのmixiの機能を使ってできることのすべてにチャレンジしたいと思っています。
「きっと日刊 一郎新聞」のこの日記のチャレンジもそのひとつ。私はいくつかの歌づくりを毎日課しています。啄木の週刊メルマガ用の歌一首、万葉集の歌に合わせた歌二首、花屋さんの日記の花の画像を見て歌と俳句。そして“それぞれの「一握の砂」”の一首。そのどれもが私にはチャレンジです。チャレンジできることがあるということは幸せなことだと思います。
自分に何ができるか、なにをしたいか探してきたのだと思います。何をしていいか分からない、何かする気力もない、そんな状態が続いていました。一日パチンコ店に入りびたりのときもありました。ビデオばかり見ていた時期もありました。
52歳になってパソコンを始めました。その日からは毎日が勉強でした。興味は次から次へと湧いてきました。パソコンを始めるきっかけになったメルマガの発行も続けています。とりわけ日刊の「花を歌うかな」のメルマガは、なによりも母が喜んでくれます。つきに1~2回、発行したメルマガをプリントしたものを母に送ります。プリントした花の画像はどれも美しいのです。

小学生の頃は長崎市内に住んでいました。母は和裁を若い人に教えながら家計を支えていました。小学4年生になってすぐ、事情があって福岡市内に引っ越しました。母の姉の家は花の栽培農家でした。そのつてで母は、花の行商始めました。もともと母の両親は、朝鮮の平壌で果樹園を経営していました。そのこともあってか母は花が大好きでした。
母が花の行商を始めたのは自然な流れだったのかもしれません。当時はリヤカーに花を積んでの行商です。帰りに花を仕入れてきます。食事を終え、片づけ物を済ませてから翌日の行商の為の花の整理をしていました。中学生の頃もしていましたから5~6年は続けたのではないでしょうか。
行商をやめてからは貸しふとん店の事務や布団の縫製の仕事をしていたようです。とにかく働きづめの母でした。それでも母からはグチひとつ聞いたことはありませんでした。

20で家を出ました。何も言わずに・・・家出でした。その後私は家に戻っていません。母の平壌高女の同窓会が京都であったときに会うくらいでした。 ちゃんとした定職にはつきませんでしたから仕送りもしていません。むしろ私の方から何度も嘘をついてお金を送ってもらったことがあります。それも返さずじまいです。私は母に心配ばかりかける親不孝者でした。
それでも母や父は、私に何も言いませんでした。父は6年ほど前に病気で亡くなりましたが、その後は母ひとりで暮らしてます。2年前啄木のメルマガを始めたとき、その日につくった自分の歌と啄木の歌を、毎日ハガキに書いて送ってきました。「花を歌うかな」は、昨年4月から始めました。今年の4月、やめることも考えました。1年続けたのだから十分だろうという気持ちもありました。
でも母がそのプリントを楽しみに待っていてくれます。まだやめるわけにはいかない・・・そう思いました。花屋さんだって毎日花の画像を日記にアップされています。もう数年も続いています。
母が喜んでくれるあいだは続けようと思います。私に出来るそれが唯一の親孝行かと思いました。

お読みいただきありがとうございます。
同じことが多くなるのは年のせいだとお許しください。
それではまたあした・・・ごきげんよう。

一郎

まぐまぐ!花を歌うかな
http://www.mag2.com/m/0000155181.html

花ねこ日記
http://hananeko.exblog.jp/

2006/10/25(水)

2006/10/25(水) 午後 11:19 mixi「一郎の日記」 短歌

2006/10/25(水)
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 一日で消える一郎の日記

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歌集「一握の砂」 27.草に臥(ね)て・・・

啄木

草に臥(ね)て
おもふことなし
わが額(ぬか)に糞(ふん)して鳥は空に遊べり

高きより
アホーアホーの声聞こえ
その通りだと笑顔で答え
(一郎)'04.1.30

山を行き
草に寝たのはいつの日か
部屋にこもる日続くこのごろ
(一郎)'06.9.21

資料参考「青空文庫」 http://www.aozora.gr.jp/

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「こどもたちへ」短歌メッセージ・・・その2

心ではどうしたいのか分かってる
自分を信じ
時を待つのみ

わがままは子どもの甘え
欲望を抑えきれない
大人の甘え

欲望のおもむくままに
快楽に溺れることが
真の「愛」か

背徳の「愛」と分かりて
背徳を犯す己を
許すも甘え

魂の
深き淵より叫びたる
我が良心の声に従う

やさしさは
無私無偏なる心こそ
甘えに根ざす「やさしさ」もある

優しさはいのちに感謝する心
甘えと差別
暴力を生む

暴力を受け入れる無知
暴力を愛の行為と
思い込む無知

幸せの形さまざま
信頼の見えない絆
愛あればこそ

なによりも
自分自身を偽らず
生きることこそ幸せの道

快楽の誘惑を断つ
勇気ある親の姿を
子に示せるか

愛欲を超えたところに
人として
考えるべきことがあります

愛欲にこだわるわけは
真実の愛の意味から
逃避するため

愛欲の根源にある
人間の欲求不満
自己を見つめよ

こだわりは
その人なりの人生の
乗り越えるべき課題なのです

欠点は輝く個性
子のすべて守り愛せよ
親ならばこそ

生まれ出た魂すべて
かけがえのないもの
だから感謝と愛を

こころには
しぶとく鬼が棲みついて
私を喰らうスキを窺う

鬼さんよ
君も私の一部だよ
嫌いだけども死ぬまで一緒

人間の
心は揺れる揺れるもの
揺れに任せてみるのもいいよ

生きてさえ
いれば必ず喜びに変わる日が来る
どんなつらさも

生きている
ただそれだけで素晴らしい
そう言える日が必ず来ます

人間のこころは不思議
揺れに揺れ
いつか掴める揺れぬ心を

何ごとも打ち込んでみる
自ずから
なすべきことが見えてくるから

安心を子には与えん親ならば
大きな人に
大人になって

子どもには親こそすべて
子のために
やさしい瞳やさしい笑みを

子のために出来ることとは
子の自立
子の決断に任せ見守る

失敗や悩みや辛さ乗り越える
子も
人生の同志なのです

快楽の
誘いに負けてしまっても
立ち直れるか堕ちてしまうか

堕ちるとは
自分を殺し生きること
生き返らすも自分の力

人生で
この上もない快楽は
生きてることを喜べること

経験の
すべてがきっと活きてくる
無駄なことなど何もないから

時が過ぎ
やっと解決することも
だから途中であきらめないで

揺るぎなき
親の信念あるならば
いかなることも何するものぞ

揺るぎなき
子への信頼あるならば
いかなることも何するものぞ

親となるその責任が
揺るぎなき
信念となり信頼となる

悔やむまい
過ぎてしまったことなんか
時間がすべて解決します

親として子に出来ること
なにもせずただ見守って
信じきること

欲望は誰にでもある
欲望に支配されるか
理性で克か

愛されて理性は育ち
愛を知り理性は強く
強くなります

自立する精神こそが
平等と自由の基礎に
見失うまい

気持ちいい
自然の中を歩くこと
ただただ歩くきついが歩く

悩んだら
考えないで歩くこと
歩きつかれてあとは寝るだけ

なるようになるそれでいい
あるがまま
今の自分がすべてなのです

去るもよし来るを拒まず
なすがまま
人それぞれの道を求める

わが思い
伝わらずともそれでいい
人はひとなり我はわれなり

人間は
そもそも善か悪なのか
悪と思うは自己弁護なり

欲望の
意味するものの真実と
向き合う勇気持てるかどうか

として
大切なのはただひとつ
どんなときでも意志を貫く

親として
大切なのは家族です
愛あればこそ家族なのです

世の中で
大切なのは平和です
自由も幸(さち)も平和の果実

平和こそ守るべきもの
人として
家族のために世界のために

幸不幸
見方変えればすべて幸
自分次第で人生変わる

嘆くまい
どんなにつらい困難も
乗り越えられる負けてたまるか

天が裂け
地が割け炎降ることも
何が起きても不思議ではない

たとえまだ未知多くとも
科学するこころ忘れず
科学を信じ

愛ゆえに
離れることもあるのです
信じるゆえに離れるのです

苦しいが
一歩一歩のその先に
一息つける場所があります

歩くのはなぜなのだろう
意味なんかどうでもよくて
また歩きます

ひとりです
いつもひとりで歩きます
ひとりが性に合っているので

こどもたち
うんといたずらしてもいい
いっぱいないていっぱいねんね

いまのこと
なにもしらないこどもたち
おやになったらおもいだすだろ

こどもにはおやがすべてさ
おやだってこどもがすべて
どうかよろしく

お読みいただきありがとうございます。
同じことが多くなるのは年のせいだとお許しください。
それではまたあした・・・ごきげんよう。

一郎

短歌メッセージ「こどもたちへ」
http://ichiro54.hp.infoseek.co.jp/

2006/10/24(火)

2006/10/24(火) 午後 9:28 mixi「一郎の日記」 短歌

2006/10/24(火)
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 一日で消える一郎の日記

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歌集「一握の砂」 26.呆(あき)れたる・・・

啄木

呆(あき)れたる母の言葉に
気がつけば
茶碗(ちやわん)を箸(はし)もて敲(たた)きてありき

耳遠き母との会話合わねども
明るい声の
はずむ電話機
(一郎)'04.1.29

今しがた新聞入れた記憶なし
行ったり来たり
呆れてしまう
(一郎)'06.9.20

資料参考「青空文庫」 http://www.aozora.gr.jp/

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きのうマイミクシィに追加していただいたたもっちゃんさんとのご縁は、たもっちゃんさんのmixiのトップ画像がピアノの鍵盤だったことです。
あるピアノのの画像でなかったらもしかしたら訪問していないかもしれません。美しい風景とか可愛いペットの画像にはやはり目が留まりますね。そして訪問してみようという気になります。
たもっちゃんさんの年齢は私より5つほど下の53歳・・・私がパソコン、インターネットを始めたのは52歳でした。53歳といえば、私は何とか手探りでhtml形式のメルマガを始めた頃かと思います。
年々忘れっぽくなっています。もう昔のことはあいまいな記憶の彼方です。
チャットから始めて次第にビデオや音声チャットにはまっていきました。同時のNSNコミュニティに「イチロー52のネットファミリー」というコミュを作りました。このことがHP作りを覚えるきっかけになりました。

「イチロー52のネットファミリー」とは、チャットで知り合って気心が通じ合った数人の人と仮想家族をつくりました。私が父親、それぞれの年齢に合わせて私の姉になる人がいたり、私の娘、息子になる人がいました。
「家族」という形にしたのは、自分の家族の無い私のせめてネット上で家族を・・・という夢だったのかもしれません。また私に関しては、知り合った人との男女関係を排除しようという思惑からでした。MSNでは他にもいくつかのコミュニティをつくりました。その中のひとつに「二人書房」というのがありました。
チャットで知り合った人に小説を書く人がいました。私と同じ年齢で、以前の仕事が医療関係という私との共通点もありました。小説を書く人がいて、私は編集者という立場・・・その二人でつくるから「二人書房」と名づけました。
この名前、実際にある「一人書房」のパクリなのです。ご夫婦で経営されている「一人書房」という出版社があるのです。初版本の復刻を主に手がけている出版社だったと記憶していますが、その後夫婦が書かれた本が出版されたことを知り、興味が湧いて求めたのでした。
「一人書房」・・・い名前だと思いました。だからMSNにコミュニティをつくったとき、迷わずに「二人書房」としたのでした。小説の内容は、ある男がキャパクラ通いしていろんな女性と出会い分かれるという話しでした。
そのコミュのメンバーになった女性の体験的小説を、のちに週刊メルマガにして発行するきっかけとなったコミュした。

MSNコミュはリッチテキスト形式とhtml形式のいずれかで作成することができます。その当時はリッチテキスト形式のメールは出来るくらいで、htmlのタグを見ただけでこれは難しい、私には出来ないとあきらめていました。
コミュにカウンターを設置してみることにして初めてタグをいじりました。説明どおりにしただけなのですが、実際に自分のコミュに設定どおりのカウンターが動き始めたときには感動してしまいました。タグをいじることの面白さをそれで覚えたのですね。それからタグの勉強を始めました。
あるページのソースをそのままメモ帳にコピーしてhtmlファイルで保存、そのあとタグの内容を色々変更したりしてどのようにページが変わるかを調べてみたりして覚えていきました。
「二人書房」のメンバーになった女性は、すでにHPで体験的小説を発表していました。その小説をメルマガにするとき、html形式にすることにしました。毎週発行していくこと自体が勉強でした。私はホームページビルダーなどのソフトは使えません。タグは手打ちで覚えていきました。
メルマガは、私の都合で半年ほどでやめることになるのですが、そのあと自分のホームページつくりに没頭することになります。それが出来たのは、このメルマガを発行するという経験があればこそだったと思います。そしてメルマガの発行が、そもそも私がパソコンを始めるきっかけだったのです。

体験的小説のメルマガのこと、その内容、そしてどうしてやめることにしたのか・・・それらを書くことはまだ私にはできません。書くちからも書く勇気もまだないからです。
メルマガをやめたあとの空白感を埋めるべく熱中したのがクラシック音楽のページつくりでした。インターネットで公開されているMIDIをお借りしてつくるのですが、自然とピアノ曲が多くなります。それでピアノの鍵盤の画像・・・たもっちゃんさんのmixiのトップ画像と結びつくのです。

今年の12月で私は満59歳になります。世間をお騒がせすることになる団塊の世代なわけです。団塊は団塊でも組織、社会にはなじめなかったハグレダンカイ、団塊になれずにひとりっきりのフリーター、当然無年金・・・余裕ある定年退職組とはいささか違うのです。
それはそれとして、52歳で始めたパソコンのこれまでを振り返るとMSNコミュ「イチロー52のネットファミリー」が私の出発点になるのかと思います。いまはMSNメッセンジャーもしていませんからネットファミリーの「子どもたち」との交流もなくなりましたが、どこかでHPを見てくれていると思っています。
私のHPに「こどもたちへ」という短歌メッセージのコーナーをつくっています。「ネットファミリー」のこどもたちが読んでくれればと願ってつくりました。その中からいくつか歌を紹介したいと思います。

「自分」

自分ってひとりではない
誰かしら
どこかできっと見守っている

本当の自分らしさをとりもどす
それだけでいい
それが自信に

むなしさを感じたときに
新しい自分に変わる
勇気を出して

「家族」

家族とは真剣勝負
真剣に向き合ってこそ
絆は強く

子は親の姿を映す鏡なり
子を責める前
己を責めよ

家族とは
いつわりのない関係で
結ばれてこそ幸せになる

「真実」

真実を見つめる勇気
真実を見分ける力
真実が友

「夢」

夢がある
きっとだれでも夢がある
たくさん夢を持って生きよう

夢の数
たくさんあればあるほどに
元気になれる勇気もでるよ

夢を持つ
それだけでいいそれだけで
叶うかどうか考えないで

夢がある
それだけでもう半分は
夢を叶えているというから

夢を持ち
それに向かっていきること
大切なのは生きることだよ

夢は何
何がしたいか探すこと
それが分かれば生きていけるよ

「快楽」

快楽は自由ではない
人として
してはいけないこともあります

欲望が人間性を否定する
愛の名でその行為すら
正当化する

欲望の意味するものは何なのか
その真実に
向き合う勇気

「愛」

許すこと受け入れること
それが愛
だが従順になることじゃない

「太陽 」

若者よ夕焼けを見よ
若者よ朝日を浴びよ
君は太陽

自然はね
意味のないものないんだよ
生きてるだけで素晴らしいのさ

太陽も永遠じゃない
人間もかならずや死ぬ
自然の摂理

誰だって悩みはあるよ
そんなとき
夜空を見上げ星と話そう

「いのち」

いのちって
あっけないほどはかないね
だから大事に大事にしよう

いのちって不確かなもの
だけどもね
強いこころがたくましくする

いのちってほんとに不思議
ぼう大な組織のリレー
すばらしいよね

「無題」

ケガなどは
「日にち薬」で治ったよ
心の傷もきっと治るよ

自分をね好きになろうね
そうでしょう
よくやってるよ誉めてやろうよ

「これから」

後悔はしなくてもいい
人生はやり直せるよ
勇気を出して

過去は過去
大切なのはこれからさ
何を学んでどう活かすのか

しあわせになっていいのさ
ならなくちゃ
そのためにこそ生きてるんだよ

大丈夫
自分のことがすきならば
今つらくとも負けやしないよ

誰だって淋しいものさ
誰だって孤独なんだよ
君だけじゃない

たとえいまどうあろうとも
生きること
そしたらきっといいことがある

分かるかい
生きてることは奇跡だよ
すごい命をみんな持ってる

お読みいただきありがとうございます。
同じことが多くなるのは年のせいだとお許しください。
それではまたあした・・・ごきげんよう。

一郎

短歌メッセージ「こどもたちへ」
http://ichiro54.hp.infoseek.co.jp/

2006/10/23(月)

2006/10/23(月) 午後 10:44 mixi「一郎の日記」 短歌

2006/10/23(月)
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 一日で消える一郎の日記

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歌集「一握の砂」 25.なみだなみだ・・・

啄木

なみだなみだ
不思議なるかな
それをもて洗(あら)へば心戯(おど)けたくなれり

無意識の自我が病をひきおこす
人のしくみの
不思議なるかな
(一郎)'04.1.28

跳び箱に何度も挑み
跳べたあと
子の目に涙まわりも涙
(一郎)'06.9.19

資料参考「青空文庫」 http://www.aozora.gr.jp/

mixiに登録したのが9月22日でした。早いもので1ヶ月が過ぎたことになります。
日記を始めたのが27日でした。それまでの間はmixiのシステムが分からずに、マイミクシィを手がかりにmixi訪問を続けていたのだと思います。
そうしているうちに京都つながりの方の訪問があったり、私が訪問したところからの逆訪問があったりして一人二人とマイミクシィのお仲間が増えました。
次第にmixiの勝手が分かってきました。何もしなければ何も始まらないことが分かってきました。せっかく招待していただいて登録したmixiですからすぐやめるわけにはいかない、この際やれることをやってみようという気持ちになりました。
mixiで自由になるスペースは、日記とプロフィール欄の自己紹介だけ・・・ところがそのどれもがスペースの容量は自由でした。それなら苦手を克服すべく長い文章の日記を毎日更新することを義務付けました。mixiをチャレンジの場にしようと思ったのでした。
自分が自分のmixiを楽しむことにしました。自分が楽しまなければ、人も楽しめない・・・そう思いました。
まだその成果?が表れているとは言えませんが、ともかくmixiに打ち込んでいる今日この頃です。

この間、私のマイミクシィのお仲間は20名になりました。少なくとも私はこころを打ち明けられる方々だと思っています。
私を招待していただいた大津留さんのご紹介ということでゆうやけこやけさんが先ずマイミクに加わっていただきました。
ゆうやけこやけさんは、毎日長い小説を発表しておられました。私より3歳年上にしてその精力的な創作活動は、私にとって驚き以外の何物でもありませんんでした。長い文章が書けない私にはショックではありましたが、私自身の心の奥で何かも燃えてくる熱いものを感じていました。
私は気がつかなかったのですが、ゆうやけこやけさんの方でも私に何かを感じられたのか、私の日記のコメントに「一郎さんと話していると、まだ若かったころの生意気な文学青年だったころの自分が思い出されます。」と書いていただきました。年齢を越えて刺激し合えるお仲間が出来たことに感謝しています。
ゆうやけこやけさんとの出会いで感謝することがもうひとつあります。私が管理するコミュニティ“それぞれの「一握の砂」”では、啄木の歌集「一握の砂」の歌に合わせて自分の歌をつくろうと呼びかけています。このコミュニティは、Yahoo!ブログの同名のブログを母体につくったものです。
ゆうやけこやけさんが、ある方にそのブログを紹介してくださいました。その方が、“それそれの「一握の砂」”へ歌の投稿を始められました。そしてご自身のブログに「私は頑張って551首、歌ってみたいと思っているのです。」と書かれています。
mixiで知り合ったお仲間の紹介で歌のお仲間も増えました。ありがたいことだと思っています。

つい最近マイミクのお仲間に加わっていただいたダン66さん・・・プロフィールに「団塊震央世代ながらも元気溌剌、走る百科事典、生きるウマノホネ、眠れない森のオッサンなどとも称される。 おだてられ、さげすまされながら辛うじて生きてまんにゃわ、へなへなへな。 」と書かれているごとく私と同年代。文章は立て板に水、関西のお笑い芸人も真っ青のギャグ連発。
プロフィに私がひっかかたのは、生い立ちの第1行・・・「生い立ち ・両津市片野尾(母の実家)で出生」というところ。両津・・・新潟・佐渡島のこの町に「Cofee House 再会」があるのです。その喫茶店のホームページの掲示板が、私の今に続いている啄木の短歌との付き合いの始まりだったのです。
そのいきさつについては10月10日のこの日記に書きました。実際には行ったことがない佐渡島の両津の喫茶店、ホームページだけのお付き合いだった喫茶店のマスターの蛍さん・・・もしかしたらダン66さんは実際に会われたことがあるのかもしれない、そう思ってメッセージを送り尋ねてみました。
そのお返事には、その喫茶店は家から5分以内にあるということ、よく喫茶店に行っていたこと、マスターとはあまり話したことはないがよく知っているとうこと、無口で上品なかただったということなどが書かれていました。そのメッセージへの返事を送信したあとに、ダン66さんからマイミクシィへのお誘いがあったのでした。
啄木の歌も大好きだということで、一番好きな歌が書いてありました。「近眼にて おどけし歌を詠みいでし 茂雄の恋も哀しからずや」かなあ・・・と。岩波茂雄を詠んだ歌を好きだというのがダン66さんらしいと思いました。歌集「一握の砂」の194番目の歌です。その歌に合わせてつくった私の歌は・・・「小な字メガネはずしてよく見える いつのまにやら 老眼になる」(2004年7月16日)・・・でした。

ゆうやくこやけさんと同じようにダン66さんからも刺激を受け、影響を受けて私の何かが変わるかもしれません。
mixi登録から1ヶ月・・・これまでのご縁に感謝し、自分自身ヘのチャレンジを続けていくつもりです。目には見えないような変化でしょうが、続けていくことで何かが変わることを信じたいと思います。

お読みいただきありがとうございます。
同じことが多くなるのは年のせいだとお許しください。
それではまたあした・・・ごきげんよう。

一郎

ゆうやけこやけさんのmixi
http://mixi.jp/show_friend.pl?id=6139215

ダン66さんのmixi
http://mixi.jp/show_friend.pl?id=3913847

mixiプロフィ
藤川一郎
京都市北区紫竹北大門町37 葵荘17号
075-493-4676


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