最強チャンピオンの源泉 ――ボクシング元世界王者内山高志

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 今日は、2019年6月に書いた宣伝会議・編集者ライター養成講座の卒業制作をあげます。ボクシング界伝説の王者・内山さんにご協力いただいたおかげで、優秀賞をいただけました。

 コロナ前で現状と合わない部分もあるかもしれない点は、ご了承ください

 何と、インタビューはわずか15分。聡明な内山さんによる即答で、できた記事です


 「ビビりなのかもしれませんね。休んだら悪いことが起こるとか、考えてしまうんです」と自らを分析するのは、ボクシング元WBA世界スーパーフェザー級王者の内山高志。2010年から2015年にかけ世界王者に君臨した、ボクシング界のレジェンドだ。
 世界王座在位期間は日本人歴代最長の6年3カ月、王座防衛回数は同3位の11回をマーク。36歳1カ月での世界王座防衛は、日本人最高齢記録となっている。
 世界戦で積み重ねた11勝のうち、実に10試合がノックアウト(KO)勝ち。左右の〝一撃〟パンチや連打で世界的強豪を次々に倒す姿から、ついたニックネームは〝ノックアウト・ダイナマイト〟。強烈なパンチと豪快なKO勝利でファンを魅了した男の力の源泉は、まじめさと正直さだった。

1現役時代、地元春日部に凱旋した

春日部凱旋試合時のポスター

無名のスポーツ少年 強豪校でボクシング開始

 1979年生まれで埼玉県春日部市で育った内山は、活発で外で遊ぶことが大好きな子どもだった。スポーツにも親しみ、小学校では野球と陸上、中学校ではサッカーに取り組んだ。
 ボクシングの世界王者になる選手は、幼少期から運動神経に優れているケースが多く、他の種目でも大成したのではと評されることもよくある。しかし、内山はそのケースには当てはまらなかった。少年野球では試合には出ていたもののポジションを転々とし、サッカーではレギュラーに定着できなかった。後の名世界チャンピオンの幼少期は、どこにでもいるようなスポーツ少年だった。
 ボクサーを志したのは、中学2年生の辰吉丈一郎―薬師寺保栄の世界タイトルマッチを見た時。ボクシング史に残る激闘に感激した内山は、高校でボクシング部に入ることを決意。県下随一の強豪校・花咲徳栄(はなさきとくはる)高校に入学した。

屈辱を乗り越えたボクサー4年目 結実した努力

 だが、ボクサーとして開花するまで、4年の月日を要した。高校入学直後は、先輩はもちろん同級生にも勝てなかった。3年生の時に国体で準優勝したが、世界王者のロイヤル小林や八重樫東(あきら)らを輩出した強豪校の拓殖大学に、スポーツ推薦ではなく一般推薦で進学した。
 「大学入学直後から11月までの7カ月間がターニングポイントだった」と内山は振り返る。今も忘れられない人生最大級の屈辱と、急成長を経験したからだ。内山の同期は後にプロで東洋太平洋王者となった相澤国之ら、有望な選手がそろっていた。同期は、10人中8人が1年生からリーグ戦でメンバー入り。メンバー外となった内山は追い打ちをかけられるように、同級生に荷物持ちを命じられた。おれはこんなことをするために、大学に来たんじゃない――。
 内山は悔しさをパワーに転換し、練習に打ち込んだ。トレーニングは朝夕の1日2回、週7回休みなしの毎日。大学の部活が長期休みに入ると、同期が里帰りで骨を休める中、連日母校・花咲徳栄高校の練習場で汗を流した。
 鬼気迫る努力は、実った。筋肉の成長期で背筋が大きくなりパンチ力が付いたこともあり、結果をもたらす。
 11月の大会で、大学の先輩と戦うことになった。相手は将来を有望視された大学の主軸で、内山にとっては明らかに格上。周囲は、先輩の完勝を予想していた。しかし、試合では内山が果敢に攻めて判定勝利。勝利が決まると、内山はリング上で泣いた。アマチュアで日本一になっても、プロで世界タイトルを獲得しても涙を流さなかった男が、感極まった瞬間だった。

アマチュア全日本3連覇 プロでは全勝で世界王者に
 
 「ボクサーは自信が大事。タイトルを取った選手は、その後にどんどん強くなる。自信が付くことで、自分のボクシングが堂々とできるようになるから」と語る内山は、ボクサーとして飛躍。ボクシングスタイルもパワフルになり、強さを前面に押し出すボクサーになった。
 2年生からリーグ戦のメンバーに選ばれると、RSC(レフェリーストップコンテスト、プロのKOに相当)勝ちを量産。4年生の時には全日本選手権を初制覇。その後も全日本選手権3連覇など、アマチュアボクシング界を代表するボクサーとなった。
 2004年のアテネ五輪出場こそかなわず一時現役から離れたものの、熱心に誘われていたワタナベジムから2005年7月、25歳でプロデビュー。2年後、7戦全勝(5KO)で迎えた8戦目で東洋太平洋王座を獲得。防衛戦では世界5位の選手をKOした試合も含め5勝4KOと圧倒的な強さを見せ、世界挑戦のチャンスをつかむ。
 2010年1月に迎えた世界王座初挑戦では王者・ファン・カルロス・サルガド(メキシコ)を相手に序盤から優勢に試合を進め、12ラウンドKOで完勝。30歳にして、全勝のまま世界の頂点に上り詰めた。
 世界王者となってからも内山は止まらなかった。王座を維持し、一時代を築き上げた。

2現役時代にファンが応援の際に着たTシャツ

試合会場でファンが着用した〝内山一撃〟Tシャツ

相手のスピードが落ちる 内山流ボクシング術

 相手を圧倒するパワーが強調されることが多かった内山だが、試合では常に駆け引きを行っていた。
 「実際にリング上で構えてみないと、相手の雰囲気はわからない」。試合前には対戦相手の最低限の特徴を把握し、試合開始後1ラウンド目は相手の様子を探る。集めた情報を生かし2ラウンド目から自らの動きを変え、相手が戦いづらいように試合を運ぶ。
 具体的には動きのリズムや、パンチを出すタイミングを変えていた。相手は戸惑い、リズムが乱れていく。
 敗戦後に挑戦者が「試合前に映像で見た内山はスピードが遅かった。でも、実際に戦ってみたらそんなことはなかった」と語ったことがあるが、内山によって本来の動きを封じられていたのだ。内山は言う。「自分の映像を見てもスピードは速くないと思うし、実際に相手の方が速いことも何回もあった。ただ、僕のリズムが変だから、相手が遅くなってしまう」と。〝ノックアウト・ダイナマイト〟は、強烈なパンチとともに技巧によっても相手を制していた。

基本と精神面を重視したディフェンス術

 内山のボクシングで圧倒的な攻撃力と並んで特筆されるのが、優れたディフェンス。大きなパンチを当てられてダウンしたことはあったが、連打で窮地に追い込まれることはなかった。
 秘訣はパンチを当てられた直後に動くこと。内山は「ボクサーはパンチは絶対にもらう。いかにその後にもらわないかが大事」と明かした。ボクシング界では古くから言われてきたが、パンチの打ち合いとなる実戦の中で実行できる者は少ない。だが、内山は忠実に守っていた。
 精神面も大事だという。内山はパンチをたくさん受けるタイプではない。アマチュア時代にパンチで大きなダメージを負ったことがなく、打たれ強さに自信があったが、プロでは時折ダメージを負った。「あまりもらわないと思っているから、当てられるとダメージを受けてしまう。逆に、パンチはもらうものだと思って臨んだ試合は、それほどダメージはなかった」と語る。

努力を支えた天性のまじめさ

 「子どもの頃は、真面目だった。嘘がつけなかった」と振り返る内山は、小学生の頃から練習をさぼったことがなかった。小学校で行われる10分間走も、常に全力だった。「サボったら足が遅くなると思っていた」という気質は、自然に身についていた。
 また、与えられた状況の中で最大限の努力をすることも重視していた。パンチ力が強いボクサーは、その衝撃を自らの拳も受けることになるため、拳を痛めることも多い。内山もこの例にもれず、再三拳を痛めていた。試合中に右のパンチが出せなくなったり、1年間試合ができないこともあった。それでも、左のパンチだけで後の世界王者をKOし、ブランク明けでも変わらずに圧倒的な強さを見せつけ、勝ち抜いた。

全力の練習、3時間会話無し

 内山は、練習では一切の妥協をしなかった。ジムには静かに入り、集中力を高めていた。トレーニングに入ると約3時間、トレーナーとのボクシング関連の会話以外は口をきくことさえなかった。
 内山を質の高い練習に駆り立てる源はネガティブな気持ちだった。練習をさぼったら、弱くなってしまうのではないか、何か悪いことが起こってしまうのではないかという不安感。そんな気持ちが練習に集中させる。「だから余計に練習する。負けるとは考えていなかったけど、『これじゃ足りない』って思っていた」と、日々のトレーニングに励んでいた。

腹をくくり 世界タイトルマッチを楽しむ

 ボクシングは過酷な競技だ。〝殴るプロ〟のパンチによって、甚大な傷を負うリスクは常に抱えている。どんなに強い王者でも試合前は恐怖に震えることになる。怖さのあまり、交通事故に遭って試合が中止になればいいのに、そんなことまで考える元世界王者もいた。
 また、他の格闘技と異なる1つの試合の勝敗の重みもプレッシャーとなる。格闘技では、積極性や諦めない心を見せるファイターは高く評価され、負けてもすぐに次のチャンスが巡ってくることもある。だが、厳格にランキングが決められたボクシングでは、世界王者が素晴らしい試合をしても1戦負けただけで王座から陥落し、〝次″がいつ回ってくるかわからない。
 内山はアマチュア時代は試合前に緊張していたが、プロに入ってからはそれほどでもなくなったという。「慣れたのもあるけど、本当に楽しんでやっていたので。キャリア後半は全く緊張しなかった。〝腹をくくった〟というか。『これだけ練習したなら負けないだろう、これで負けたら仕方ない』」。それは、自分に正直に、まじめに、努力を重ねた男がたどり着いた境地だった。

負けや衰えも否定しない

 内山は、苦しい過去もさらっと語る。負けた試合の心情も、よどみなく明かした。2016年4月の世界王座12度目の防衛戦では、ジェスレル・コラレス(パナマ)にまさかの2ラウンドKO負け。当時の心境は「プロに入って13年、負けなしで来た。どこかで負けるとは思っていたが、『今日か~』という感じだった」と振り返る。
 当時、敗戦直後にもかかわらずテレビ中継中にインタビューに応じ、自らの試合を「完全なKO負け」と分析していた。直後の帰宅時の自動車内での取材にも応じ、「負けるってこういう感じなのか」と語っていた。時間が経過したから語れるようになったわけではない。
 世界王座奪回に失敗した2016年大みそかのコラレスとの再戦は、判定負け。リベンジはならず、現役最後の試合となった。
 ただ、スコアは1‐2。3人中1人のジャッジは内山の勝ちとするほどの接戦だった。それでも「負けたと思った。コラレスの方がうまかった。センスが抜群だった。自分のリズムにできず、相手のリズムで戦ってしまった。」と振り返った。
 衰えに関しても実に率直だ。「34、5歳の頃から何となく。反射神経が鈍っているということは練習から感じていた」とあっさりと認めている。

ボクシングの魅力とは

 ボクシングの魅力について「わからない」と断言。一方で「楽しいけど、練習はきついしすべてが楽しいわけではない。試合で勝った時の輝いている感じ、努力して良かったという感じが病みつきになる。リングの上では自分が主役で気持ちいい」と振り返った。
 引退してから2年、再びリングに立ちたいかと問うと「上がりたい。試合をしたいと思う」としつつ、「でも、やっぱり練習をしていなければ上がってはいけない」とボクシングへの敬意を見せた。
 一方、ボクサーではない一般人にとってのボクシングの魅力については、ストレス発散を挙げた。「パンチングミットにパンチを当てるのは気持ちいい。パンチのコンビネーションを覚えるのもおもしろい。楽しみながらダイエットに取り組めるのが魅力」と明確に説明する。

トレーニングをしたくて開いたジム 会員ファーストで順調なスタート

 2018年12月、東京都新宿区にフィットネス&ボクシングジム「KOD LAB」をオープンした。ジム設立のきっかけは、後輩への気遣いだった。
 長年ジムのトップとして君臨してきた内山は、練習では一切の妥協をしなかった。そんな自分が今ジムに現れれば、緊張感が出て後輩は気を遣い練習に支障が出てしまう。内山はそんな状況を嫌った。
 ジムには、会員への配慮が随所に施されている。東京メトロ丸ノ内線の四谷三丁目駅から徒歩1分で2階に位置しているのは、通いやすさを重視してのこと。〝駅近〟ならば、会員が電車で通いやすい。1階だと特に夜は会員のトレーニング姿が外から見えることで取り組みにくくなり3階より上だと負担になると考え、2階を選択した。会員にとっての良い環境を求め、引退直後から1年2カ月かけて物件を探した。
 ジム名は、ノックアウト・ダイナマイト(KOD)と研究所(LAB)の意味。「〝元世界王者のジム〟というアピールの仕方はしたくなかった」と命名の理由を語る。
 研究所には、ボクシングだけに限定せず、ダイエットや筋肉トレーニングなどさまざまなトレーニングを総合的に教えるという意図が込められている。トレーニングメニューは会員の希望を基に作成するため、ボクシング以外のトレーニングのみに取り組むことも可能だ。
 ジムの内装は内山の好みの黒が基調で、ヨガスタジオのような清潔感が漂っている。会員が過ごしやすい、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
 ジム内では、会員とトレーナーが和やかに談笑する姿が目立つ。トレーナーが積極的に会員に声をかけ、楽しくトレーニングに取り組める環境になっていることが感じられる。会員同士の交流を促すために、ペアでのトレーニングも実施。内山は「ジムに来て知り合いがいれば、1人ぼっちにならない。仲良くなってもらうため」と真意を語る。
 会員の通いやすさと過ごしやすさを追求した結果、オープンから半年で会員数は230人に達している。女性会員も目立つ。引退後の事業も順調なスタートを切った。

3ジムの外観

新宿区四谷に開設したジム「KOD LAB」

会長兼トレーナーとして 次世代の育成に取り組む

 内山は、ジムのトレーナーとして指導者の顔も持つ。ボクサーを指導する際には、積極的に会話をしている。選手の出来ていないところや気になったところは、すぐに教えていくスタイルだ。指導論では厳しくするのか優しくするのかという議論になるが、内山は選手によるという。ただ、「厳しくしてついてこられない選手、言われないとできない選手はプロでは無理。強くなる選手は自分から取り組む」ときっぱり。
 今後について「立場は会長でも、トレーナーは続ける」と意欲を見せている。

テレビでの試合解説も まじめに、正直に

 引退後に、テレビでの試合解説も任されるようになった。テレビで最も重要視されるのは、視聴率を取ること。そのために解説者も〝盛り上げ役〟の役割が求められることもある。中には、過剰な日本人びいきになってしまう人もいる。
 しかし、内山の解説は率直な物言いが特徴。「周りから『正直すぎる』と指摘される。思ったことを言ってしまう」と苦笑いする。戦っている両者に対し平等に、どちらの長所も短所も語ることを心掛けている。内山の解説が、ボクシングファンの期待を裏切ることはない。

4ジム内でファイティングポーズをとる

ジムでファイティングポーズをとる内山

新しいジム経営や事業も視野に

 今後、新たなボクシングジムを開く構想も持っている。地元の埼玉県春日部市でのジム開設も視野に入れている。
 また、現役時代から引退後の飲食店経営も考えていた。ダイエットメニューを展開するときに信憑性を持たせるため、現役中にもかかわらず野菜ソムリエの資格も取得していた。
 座右の銘は「恐れず・おごらず・侮らず」。第二の人生も、内山は着実に歩みを進める。

【参考文献】
内山高志『心は折れない』廣済堂出版

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