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【短編小説】魔法が解けても


ボトルインクに浸して、試し紙でインクを整えてから、繊細に滑らかにその万年筆は泳いだ。
フランス語で“Joyeux anniversaire”
その下に彼の名前が記されて金色の箔がまわりに施されたそのシールは、19世紀当時の新聞Journal de l'Empireを再現したラッピングペーパーの包み箱に貼られた。

「お客様のお気持ちが届きますように、私どもよりささやかなプレゼントです。」

強弱の美しいそのカリグラフィを私の方向に向けた。丁寧で無駄のない動き。その箱はオリジナルバックにおさめられ、お店を出る前に彼女は言う。

「香りを纏って出られませんか?」

その店のシンボルでもあるシダーウッドの水星香水。彼女は私の手首をやさしくつかみ少し離れた場所からその香りを吹きかけた。まるで魔法をかけるみたいに。

「ご来店ありがとうございました。素敵な誕生日となりますように。」

帰りの電車で、その赤い上品な手提げ袋をしっかり握って大事に膝の上に置いた。目を閉じて想像する。

彼とふたりでデパ地下のショーケースを眺めるの。タルトが好きだけどクッキー部分が固いとフォークで割った時にきれいに食べられないよね。うん、無難にスポンジケーキにしよう。やっぱり苺ね。お腹がいっぱいだったら、ひとつを2人でつつくのもありだな。プレゼントはケーキを食べた後。包装紙はきれいにほどいて欲しいの。今日から使えるものにしたんだよ、旅好きのあなたに。喜んでくれるかな。そのあとね、気持ちを伝えるの。ちゃんと声にして、言葉にして。どんな反応するかしら。

そんなことを頭で巡って、電車を降りた。


だけど彼とはその日を過ぎても会うことなく月日が過ぎた。
きっと魔法が溶けてしまったのね。
彼の名前が記されたカリグラフィは引き出しの奥にしまったままで。

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