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場所の記憶

エマニュエル・トッドの『我々はどこから来て、今どこにいるのか? 民主主義の野蛮な起源』の下巻までようやく読み終わった。本著で最も印象的な内容が、場所の記憶が存在すること、及び人は強い価値観と緩い価値観を併せ持つということ、そして緩い価値観は場所の記憶と結びつき順応するということだった。トッドは場所の記憶を「ゾンビ」という言葉を使って説明していたが、長年形成された文化や価値観がその地域に生き残り、継続されていくという内容であった。

確かに、これは日常生活でも容易に発生していると実感する。幼少期では学校、大学、部活などでそれがあったと感じるし、同じ近畿圏でも大阪と京都で全く違った考え方があるように感じた。企業に勤めていると、人事異動が当たり前のように発生するが、もともと自部門にいたメンバーが、異動後しばらく経ってから会ってみると、別人のような発言をしていることをしばしば見かける。こういった事象が、緩い価値観と場所の記憶で説明できることが面白い発見であった。

一方で思うのが、強い価値観が強固になりすぎると、この緩い価値観に順応しなくなるのだろうということ。そして、強固な価値観の人が閾値を超えて存在すると、破壊と創造の方向に進むこともあるのだろう。企業やビジネスだと、2:6:2の法則が一般的な考え方として示されるが、この中間層の6の人達が、強固な価値観に変わった時に変容に結び付くのかなと思ったりもする。

自分自身は、周囲に順応する振りをすることは出来ても、その文化に染まるということが最近は殆ど無くなった気がする。それは、ポジティブな言い方をすれば芯が通っているとか、自分を持っているということになるのだろう。一方で、周囲に対してどうしても違和感や疎外感を覚えることがある。

結局のところ、孤独に対する耐性がどの程度培われたのかに集約されるのかもしれない。ただ、孤独耐性が身につくことが良いことなのかどうかは正直なところ分からない。この方向性は不可逆であり、耐性が無かった頃には戻れないように感じる。だからこそ積極的に人に勧めるようなことではないのかもしれない。こう考えると、人材育成が難しいのは、自律や自立を謳う一方で、協力や共生を求めるから、認知的不協和が生まれやすいからなのではないか。

こんなことをグルグル考えつつも、週末を気分よく過ごせるよう、ひとまず言語化して吐き出すことでスッキリした土曜日の朝である。

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