巨視

どんな時に歴史を振り返りますか?

『ズームバック×オチアイ 過去を「巨視」して未来を考える』を読了。メディアアーティストであり、起業家、研究者でもある落合陽一氏が編集長を務めるNHKのドキュメンタリー番組を書籍化したものである。コロナ禍で変わりゆく世界に対して、過去に遡って類似の変化点を捉え、そこに現代の思想やテクノロジーの発展などを付加した上で、未来を考えていく。出来事を現在の点で見るのではなく、俯瞰・巨視して考えていくという内容である。

私自身はテレビを殆ど見ないので、こういう番組があることを本著で初めて知ったけれど、かなり質の高いプログラムになっているのではないかと感じた。フォーカスしている課題に対しては的確と感じたものが多いし、過去のピックアップ事例は耳が痛くなるような反省に繋がったり新たな視点を得られる事例も多かった。未来に対しての予測や考え方に対しては、全て同意という訳ではなかったけれど、そういう視点もあるんだと純粋に楽しめるものであった。結論に至った背景には本に記されていない様々な体験や知識もあるだろうし、同じ材料でも人によって解釈は異なるので、意見が異なるのは当たり前のことでもあるけれど。とにもかくにも、非常に興味深く、面白く読むことが出来た一冊であった。

さて、本著の中で2点、改めて考えてみたキーワードがあった。一つ目は「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉。プログラムの性質上、歴史を俯瞰しようという賢者的な視点が重要視されているのは理解できた。一方で、物事の新たな局面を切り拓くには、数多くの行動や体験を通して突破口を見つけることも時には重要である。こういうスタイルで成功体験を積み重ねた場合、いわゆる愚者になってしまいやすいだろう。だけど、そもそも愚者と賢者が一定の割合で存在するから世の中に調和とカオスの両方が生じて、それが文明の進化へのプロセスに繋がるケースも多々あるようには思う。もちろん、カオス寄りになって環境汚染などの悪い影響を及ぼす文明の進化になっていることも明確ではあるので、コロナ禍という現状も含め、俯瞰的考えが出来る人が今は望まれているのかもしれない。

著者も愚者と賢者というところにとりわけ良い悪いは述べておらず、全ての人が思考が得意なわけではなく、そうではない人も含めて安心できる社会が大切だと謳っている。そして、その延長として「みんな違って、みんなどうでもいい」という言葉を発している。「みんないい」ではないところが重要で、これは解釈を誤ると反感を買いそうな言い方でもあるけれど、反感も納得も含めて、人に響く言葉になっているように感じた。私自身もスタンスはこれに近くて、結局のところ誰一人他人にはなれない。他人と同じ感覚機能を持っている訳ではないから、同じ経験から得られる知覚も異なり、それ故に出来事に対する記憶や解釈も異なったものになる。そうやって積み重ねられたものが価値観となり人格が形成されるなら、他人の考えていること等分かるはずがない。もちろん、自分自身のフィルターや、世の中の一般論などとも照合しながら相手の立場に立って考えるところまではするけれど、それでも答えなど分からない。そもそも、自分自身の考えていること自体を100%分かる人もいないから、最適解など無いというスタンスにならざるを得ない。だから「どうでもいい」という手放しは重要だろうと思う。

人間誰でも、ある局面では賢者にも愚者にもなるだろうし、そこで得た体験の話を誰かに聴いてもらえたら認められたように感じて嬉しくもなる。「どうでもいい」と思うからこそ、偏見無しで相手の体験に興味関心を示して話を聴くこともできるようになるし、自分の失敗体験も恥ずかしがらずに話すことも出来るようになる。もう少し個々人が、肩の力を抜いて話すことが出来れば、創造的な対話も増えて、社会課題の良い解決策も見つかるのにと思う今日この頃である。


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