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「えにし」と「よすが」と「ゆかり」の群れ

2023年5月21日(日)徳島北教会主日礼拝 説き明かし
ローマの信徒への手紙12章9−18節(旧約聖書・新共同訳 p.292、聖書協会共同訳 pp.286-287)
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最後に動画へのリンクもあります。「読むより聴くほうがいい」という方は、そちらもどうぞ。

▼ローマの信徒への手紙12章9−18節

 愛には偽りがあってはなりません。悪を退け、善に親しみ、兄弟愛をもって互いに深く愛し、互いに相手を尊敬し、怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。
 希望をもって喜び、苦難に耐え、たゆまず祈り、聖なる者たちに必要なものを分かち、旅人をもてなすよう努めなさい。
 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福するのであって、呪ってはなりません。
 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。
 自分を賢い者と思ってはなりません。
 誰にも悪をもって悪に報いることなく、すべての人の前で善を行うよう心がけなさい。
 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。
(聖書協会共同訳)

 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いを愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。
 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。
 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。
 自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。
 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。
 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。
(新共同訳)

▼2023年度教会指針

 今日は礼拝後に定期教会総会が行われます。その総会の中で、2023年度の教会の働きの方針を決める「教会指針」が議案に上がります。その「教会指針」の中には、新しい年度のテーマとなる聖書の言葉が掲げられます。
 ここ数年は、総会のある日の日曜日の礼拝で、その聖句を提案した理由を説き明かしのなかで語ることをやっています。今日は、ローマの信徒への手紙12章の「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」を中心とした聖書の箇所を引用しました。
 「今更」というほどよく知られた言葉ですが、2023年度は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」という聖書の言葉に忠実な教会であろうというのが、私の教会指針の提案です。

▼危険な提案

 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」というのは、言葉にするとこのようにとてもシンプルです。しかし、これを実行するのはどんなに難しいことかと思います。
 私自身を振り返ってみても、自分に近しい人と共に喜んだり、泣いたりすることはできても、それほどでもない人については、そこまではいかないということがあります。性格的な相性から、どうも共感しづらいという人もいますし、その時その時の気分によって人への共感の度合いが違う日もあります。ほんとに自分という人間は勝手なものだなと思います。
 そんなことを言うと、「ああ富田はやっぱりそういうやつだったのか。知ってたけどな」と思う人がいてもおかしくないと思います。しかし、おそらくそう思っている人自身も、そんなに私と変わらない、相手によって、あるいは日によって人への共感の度合いが変わってしまうような人間なのかもしれません。
 もちろん人には程度の差というものがあります。人の喜びを我が事のように喜んだり、人の悲しみを自分のことのように悲しんだりという、その範囲がとても広い人もいます。共感力には個人差があります。
 しかし、完璧に世界中のすべての人の喜びや悲しみに共感できる人など存在しないし、もしそんなことをしようとしたら、たぶん頭がおかしくなってしまうでしょうね。
 考えてみれば、神さまやイエスさまというのは、どんな人の喜びにも悲しみにも付き合っている方であろうと信じられていますから、まさに神業と言いますか、人間がやれば気が狂いそうなことを、私たちは神さま、イエスさまに要求しているのかなと思うことがあります。
 自分がどの範囲の人に共感できることができるのか、ちゃんと範囲が決まっているということは、その人の心を守る上で、非常に大切なことではないかとも思います。
 ですから、「喜ぶ人と共に喜びなさい」、「泣く人と共に泣きなさい」ということを、範囲や限界も考えないで要求することは、考えようによっては危険な提案だと言うこともできるのですよね。
 まあ現実的には「自分が共に喜べると思う人と共に喜び、自分が共に泣けると思う人と共に泣きなさい」というのが現実的で、「全ての人に共感すると、あなた自身が潰れてしまいますから、そういうことはおやめなさい」と逆に言いたくなるのであります。

▼「えにし」と「よすが」と「ゆかり」

 さて、今日の説き明かしのタイトルは、「『えにし』と『よすが』と『ゆかり』の群れ」というものにしました。「えにし」も「よすが」も「ゆかり」も、みな「縁」という漢字で書きます。私は教会が「えにし」と「よすが」と「ゆかり」の群れであればいいのにな、と思っています。
 「えにし」というのは、「えん」という言葉に「し」という強調の言葉がつながって、「えん」と「し」で「えにし」と言うそうです。人と人のつながり、古くは男女間のつながりのことを指していたそうですね。「あの人と私は不思議な『えにし』で結ばれて……」というような言い方をしたのでしょうけれども、それにとどまらず、広く「人と人のつながり」、つまりまさに人と人の「縁」という意味でも使われるようになったようです。人と人とは不思議な「えにし」で結ばれてゆくわけです。
 「よすが」というのは、心のよりどころや、頼りになることを指す言葉ですね。たとえば、つらいときや孤立した時に、頼りになる人のことを、つらいときの「よすが」となる人、という言い方をしたりします。これは「(心を)寄せる」という意味の「寄す」という言葉と、「か」。住む場所のことを住処(すみか)と言ったりする、場所のことを示す「か」という言葉が一緒になって、「寄す」「か」で「よすが」という事になったそうです。
 最後に「ゆかり」ですけれども、これも「たどってゆけるつながり」や「関係」のことを指す言葉です。人と人のかかわりあいという意味ですね。
 よく「縁もゆかりもない」という言い方をしたりしますけれども、実は「縁」も「ゆかり」も同じ漢字で書きます。「縁もゆかりもない」というのは、「あんたとは一切関係がありませんよ」ということですよね。逆に「ゆかりがある」ということは、頼ることのできる関わり合いがあるという意味になります。

▼キリスト者のつながり

 今日の聖書の箇所、ローマの信徒への手紙12章9−18節は、言い換えると、このような人と人の「えにし」、「よすが」、「ゆかり」を大切にしなさいよ、ということを私たちに伝えているのではないかと私には読めます。
 特別な解説の必要もない聖句だと思いますが、もう一度改めて読んでみたいと思います。
 「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いを愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(ローマ12.9-12:新共同訳)。
 「愛には偽りがあってはなりません」(9節)とありますのは、元の言葉読むと、「アガペーは本物」という単純な言葉です。つまり「私たちのアガペー(自分よりも相手を大切に思う愛)は本物であってほしい」というパウロの思いが表れているのでしょう。それをパウロは「アガペーは本物」という短い言葉に凝縮させて言い切っています。
 「兄弟愛」というのは、有名な「フィラデルフィア」という言葉です。アメリカの都市の名前にもなっていますし、トム・ハンクス主演の映画の題名でも『フィラデルフィア』というのがあります。これは「フィロス」(友愛)という言葉と「アデルフォス」(きょうだい)という言葉がつながって「フィル・アデルフォス」という音のつながりからできた言葉です。
 そして、これに続いて「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」。相手と自分の比較によって、自分は劣っていると卑屈になるのではなく、相手の優れたところを一緒に喜べるような人間関係になろうと呼びかけているように読めます。
 ここまで述べられている、「愛(アガペー)」、「兄弟愛(フィラデルフィア)」そして「尊敬」というのは、キリスト者同士の愛のつながりのことです。
 そしてこれに、「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」という、いかにも苦労人であらゆる困難を乗り越えてきた、まあやや暑苦しい人とも言えるような、この手紙を書いたパウロさんらしい気合のこもった言葉が続いています。

▼他の教会のことも視野に入れる

 しかし、その次の部分から、パウロさんの視野が、特定の1つの教会のメンバーの繋がりという閉じた世界から、少しずつ周りの世界に向けられてゆきます。
 こんな言葉が続いています。
 「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい」(12.13前半)。
 「聖なる者たち」というのは、教会によっては「聖徒」という言葉に訳されることもありますが、要するに「信徒」と同じこと、同じキリストを信じている教会のメンバーという意味です。
 それに加えて、パウロの場合は特に、この手紙の宛先であるローマから遠く離れたエルサレムの教会、12人の弟子たちに発祥する教会のことを「聖なる者たち」と呼んでいる場合もあります。
 その12弟子の教会の「聖なる者たち」のメンバーの貧しさを「自分のものとして彼らを助け」という新共同訳の訳が、良い翻訳かどうかは私に完全に判定するような力はありませんけれども、元の言葉を辞書を引きながら直訳調に読むと、単純に「聖なる者たちの必要なもの(あるいは足りていないもの)を分け合いなさい(分かち合いなさい)」と読めます。
 これが経済的に助け合いなさいという意味なのか、もっと広い意味なのかはわかりません。新共同訳のように「貧しさ」と訳すと、「経済的に貧しい人を助けなさい」という意味に限定されたように感じます。だんだん維持することが難しくなっているエルサレムの教会に対する互助献金を集めることが自分の役割だと思っているパウロの意図を汲めば、経済的に困っている教会を助けるために献金してくれ、と頼んでいるようにも受け取れます。
 けれども、最新の訳である聖書協会共同訳の場合は「聖なる者たちに必要なものを分かち」となっていますから、もう少し広い意味に解釈できるよということなのかもしれません。私たちは私たちの置かれている諸教会の状況の中で、どのようにこの言葉を解釈することができるでしょうか……。
 いずれにしろここでは、パウロがここで手紙の宛先にしているローマの教会の人たちに、自分たちの教会のことだけでなく、他の教会を助けることも視野に入れなさいよと、少し視野を広げるように促しているようにも見えます。

▼教会外にも目を向ける

 そしてパウロは更に筆を進めます。
 「旅人をもてなすよう努めなさい」(12.13後半)。
 これも直訳調で訳すと、「ホスピタリティを追い求めなさい」となっています。ギリシア語で「ホスピタリティ」に当たる言葉を「旅人をもてなすこと」という訳し方をするのが、妥当なのかわかりませんが、これがラテン語だと、「ホスピタリティ」の語源が「オスペス」という言葉で、これが「お客様の保護」という意味になっているのは確かなようです。この「オスペス」が「ホスピス」、「ホテル」、「ホステル」、「ホスピタル」、そして「ホスピタリティ」の語源になっているのですね。
 ですから、このラテン語に対応するギリシア語で、同じ意味だということになるなら、たしかに「旅人をもてなす」という言葉に近い言葉だということになるだろうと思います。
 当時の旅人というのは、商売・貿易のためであったり、巡礼であったりするわけでしょうけれど、徒歩の旅行ですから危険を伴います。特に日が暮れる頃は追いはぎや、野生動物に襲われる危険があります。またそうでなくでも、旅人は病気や飢えで倒れたりすることもあります。
 ですからここの聖句は、そういう旅人を助けてあげる宿と食事を提供してあげなさいという意味になるんですね。
 そして、そのような「ホスピタリティを追い求めなさい」というシンプルな言葉から私たちが読み取ることができるのは、単に文字通りの旅人のもてなしにとどまらず、この世を生きる旅人のような人、さまよって困っている人を、心を込めて迎え入れるということに努力しなさい、ということであろうと解釈したいと思います。
 お気づきの方もいらっしゃると思いますが、このようにしてパウロは、教会の内部のことだけではなく、教会の外の人に対しても目を向け始めて、言葉を綴ってゆくようになります。
 そして更には、パウロは「祝福せよ。迫害者を。祝福せよ。呪ってはならない」というリズム感のある言葉を語ります。教会の外に目を向け始めたパウロは、ここでついに教会の敵にまで愛を向けよと説くわけです。

▼パウロの勧め、私たちの答え

 そして、よく知られた、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け」という言葉の連なりが現れます。喜びも悲しみも人とと共にしなさい。
 続いて、「互いに思いをハーモニーのように調和させて、自分を高い者だと思うのではなく、低くされている人たちと交わりなさい。決して自分を賢いものだと思うな。悪に対して、悪で報復するのではなく、すべての人の見ている前で、『善』あるいは『美しい行い』をするよう努力しなさい。可能であればあなたがたは、すべての人と共に平和でありなさい」……という言葉が続いてゆきます。
 いずれも、教会の外の人たち、すなわち「低くされている人びと」、「自分たちに悪を行う人びと」、「平和的に接してくるわけではない人びと」を想定した言葉です。ですからパウロは、最初は教会内部のこと、更には自分たちの教会だけでなく、他の教会のこと。さらには教会外の人びと、そして教会を迫害する人びとといった風に、視野を広げて、キリスト者の愛を広めてゆくように訴えかけています。
 どうでしょうか。私たちはこのパウロの勧めに対して、どのように応答することが可能でしょうか。

▼大きなことを言うパウロ

 私は時々思うんですけれども、時々パウロは勢い余って、ものすごく高度な要求を我々に突きつけてくるところがあると思うんですね。
 パウロという人は、とんでもなく苦労をした人です。
 たとえば、コリントの信徒への手紙(二)の11章を見てみると、投獄されたり、鞭打たれたり、石を投げつけられたり、乗っている船が難破して海を漂ったり、盗賊に遭ったり、人に裏切られたり、眠れない夜、飢えと渇き、寒さに凍えていたり、裸でいたりなど、ありとあらゆる苦難を経験しています。
 そういう苦難をサバイバルしてきた人ですから、人にも強いことを要求してくる面が、パウロにはあるのではないのかなと思うことがあります。
 私自身も経験があるのですけれども、自分が「強く生きなければ」と思っている時に、人にも「強くなければ生きていけないのですよ」と要求してしまうときがあるのですね。そして、自分が「俺は弱くてもいいと神さまが言っているんだ」と思っていると、人にも「弱くてもいいんですよ」と言ってしまう。そういう勝手なことをやっているわけです。
 私は、パウロは時折、自分の困難に耐えてきたことを誇る面があって、それを人にも要求するところがあるように感じることがあります。
 もっとも、パウロは自分のことを「弱い」と書いている時もあり、「私は弱いときにこそ強い」(2コリント12.10)と言ってみたりするところもあるのですけれども、それだけに「強さ」、「弱さ」という問題に敏感すぎるところがあったのでしょうね。
 それに、「手紙では力強いが、会ってみると弱々しいやつだ」(2コリント10.10)と言われていることを気にしている箇所もあり、書くときには大きなことを書く傾向がある人だった可能性もあります。こういうところも私とそっくりです。実際には弱い人間なのに、説き明かしの原稿を書くときには、大きなことをぶちあげたりしてしまうわけです。
 ですから、ここで冷静になって、パウロが大きな口を叩いている時には、ちょっと気をつけないといけないかもしれないな、と思うわけです。

▼絵に描いた餅

 ただ、パウロは確かにいいことを書いています。いいことを書いていること自体は確かです。それを目標にしてゆくのは大事なことなんです。けれども、そのとおり実践することができない自分や自分たちを責める必要は全く無いように思うんですね。
 愛は偽りがないものでありたいです。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕える人間でありたいです。希望を持って喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りたい。敵を愛し、迫害する者のために祝福を祈りたい。身分の低い人と交わりたい。誰に対しても愛を返さず、すべての人の前で善を行うことができればいいだろう。そして、すべての人と平和に暮らせたらどんなにいいだろうか。
 ものすごい理想です。しかし、「絵に描いた餅」と言えないこともありません。「絵に描いた餅」は無くてはいけません。しかし、「絵に描いた餅」の通りに行動できないからといって自分を責める必要もないと思います。
 わたしたちはできることをやればいい。そのように思います。
 パウロも人間です。聖書とはいえ、その中に収められている手紙は人間が書いたものです。パウロがいかに理想主義者であったとしても、それがパウロというひとりの人間が理想として書いたものです。ですから、パウロの書いたものにがんじがらめにしばられる必要はなく、私たちは「絵に描いた餅」を心に抱きながらも、それを完全に達成することがクリスチャンなんだと思い込む必要は無いのでないでしょうか……。
 さあ、そのように考えてみて、改めて私が思うのは、「私たち自身が教会に助けられたように、私たちも同じ教会のわざを、自分たちのできる範囲で引き受ければいいじゃないか」ということです。

▼「えにし」と「よすが」と「ゆかり」の群れ

 私たちが教会において助けられたこと、救われたこと。それは、教会に「えにし」を持つことで、完全な孤独や孤立から救われたということではないでしょうか。私たちひとりひとりは弱い者で、完全に独りぼっちで生きてゆくことはできません。私たちは教会のホスピタリティのおかげで独りぼっちにならずに済んだのではないでしょうか。
 そして、私たち自身が教会のホスピタリティに救われたとしたら、今度は自分たちがその教会のホスピタリティの担い手になることができるのではないでしょうか。
 昨今この世は、「無縁社会」と呼ばれることがあります。世の中にはとてもたくさんの人がいるのに、多くの人にぎっしり囲まれていながら、ひとりひとりは自分が孤独だと感じている。傷ついた人、悩む人が、互いに孤独を抱えながら、寄り合って隣り合って生きているような、そんな、隣人(となりびと)との「えにし」の無い社会です。
 けれども私たち教会の人間は、このような世の中の状況で、さまよう旅人のような人を迎え入れ、いつでも「えにし」を持つ心の用意ができているのではないかと思います。
 そして教会が、何らかの縁があって「えにし」を持つ人の心の支えとなる、いろいろな人の「よすが」になることはできるのではないでしょうか。
 そして、わたしたちひとりひとりが、この教会に「ゆかり」のある者である、ということを誇りと喜びをもって言えるような、そんな教会であれたらいいなと思うのですね。
 そのために、本日の聖書に書いてあるように、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」、「すべての人と平和に暮らす」……そのような生き方を、理想は遠いかも知れなくても、志してゆきたいと思います。
 「えにし」と「よすが」と「ゆかり」の群れ。すなわち「縁(えん)」の群れ。そんな教会になろう、そんな教会であり続けたい。そういう思いから、今年の教会指針を「『えにし』と『よすが』と『ゆかり』の群れ」にしたいと提案します。いかがでしょうか。
 祈ります。

▼祈り

 私たち一人ひとりを愛し、天にある仲間も地にある仲間もつないでくださる神さま。今日も私たち、あなたにあたえられた命を生きることができます恵みを心より感謝いたします。
 この世は、傷と悩みと痛みに満ちており、それは教会に連なる者も、そうでない者も同じだと思います。
 戦争は終わらないどころか各地に広がり、貧しさは広がり、孤独が満ちあふれ、人と人の「えにし」が失われた世の中になっています。助け合い、思いやる心が人からどんどん失われてゆく時代となりました。
 いま、教会がこの世にできることはなんでしょうか。
 私たちがこの教会を、自分たちの「よすが」とすることで救われているように、この教会があなたをまだ知らない人に、あなたに愛される喜びを伝えることができますように。
 そして、この教会に「ゆかり」のある人が、あなたの愛を証しすることができますように。愛される喜びを伝える歩みに、どうか私たちを導いてください。
 イエス様の御名によって、祈ります。アーメン。


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