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いったい、どれだけ人がアメリカは日本のことを太平洋戦争の戦利品としか考えていないと思っているだろうか? 1    白井聡『自民党という絶望』所収 「理念なき「対米従属」で権力にしがみついてきた自民党」より

 ここまで、絶望的な状況を作ったのは、ひたすら「対米従属」にしがみついてきた自民党であると断言できる。そのことを正面から考えることなく、WBCで優勝したとか大騒ぎしている人々が一方にいる。また、そのすきに乗じて、ウクライナを隠密に訪問した岸田は、何のためにウクライナウへい行ったのだろうか?G7の中で行っていないのは、自分だけだといううしろめたさのために行ったのか?自分たちの権力を維持するためなら、ひたすら「対米従属」を続けることしか考えておらず、この日本をどれだけでもアメリカに差出し続けるのだろう!!
 白井さんの先鋭な戦後史の分析を読んで、そのことを考えてほしい。

「米国は日本にとって唯一の同盟国」

安倍晋三首相(当時)は2019年2月、衆議院の予算委員会において、そう語った。トランプ大統領(当時)をノーベル平和賞に推薦したのか否かについて、立憲会派の議員から突っ込まれた際の答弁である。
「米国は日本にとって唯一の同盟国であり、その国の大統領に対しては一定の敬意を払うべきであろう、私はこのように思うわけでございます。御党も政権を奪取しようと考えているのであればですね」と答えたのだ。
日本の同盟国はアメリカを置いて他にない。世界における日本の居場所はそこにしかない。これほどの孤独を抱え込んだ国があるだろうか――。そのように指摘するのは、思想史家で政治学者の自井聡氏だ。
 アメリカの軍隊を自国の領土に半永久的に置き続け、アメリカに従属することで生き永らえてきた日本。安倍氏の発言は、この国が置かれているク現実クを図らずも露塁する形となった。
 日本がかつて、「対米自立」を模索したことはあったのか。それは実現可能なものとして日本の政権に認識されたことはあったのか。白井氏に聞いた。   (取日一2022年12月17日)

   日本の戦後はアメリカと一体となることで、安全保障をアメリカにお任せして経済発展に邁進できたのだということがしばしば言われてきましたが、日米関係は「同盟関係」に収まらない独特な密着性を感じます。

白井  日米関係の意味合いについて理解するには、戦後の自民党の成り立ちのところまでさかのぼって考えざるを得ません。
 1955年、自由党と日本民主党という2つの保守政党が合同して自由民主党(自民党)が結党されましたね。当時はサンフランシスコ講和条約が締結されてから4年、アメリカによる占領が終わってから3年が経過していました。戦後の日本がだんだんと経済成長を本格化させる時期でしたが、東西対立が深まっていくという構造の中で日本の左派社会党と有派社会党が1955年Ю月に統一されます。親ソ連的な社会党がさらに強力になっていくことに刺激を受け、「保守勢力も大きな塊にならなければならない」という危機感からの保守合同でした。
 当時、吉田茂の系譜の自由党と、鳩山一郎の系譜の民主党はさまざまな確執を抱えていました。彼らをひとつにまとめるには、かなり大掛かりな工作が必要だった。そのための資金が、アメリカのCIAから流れ込んできていたということはよく知られていることです。それにより、非常に強力な保守政党が誕生します。つまり、アメリカが強く望んで生まれた保守統一政党であったという点が重要です。アメリカにとって、日本が社会主義陣営に走ってしまうとか、中立の立場になってしまうということは絶対に避けなければならなかった。なぜなら、アメリカにとっての日本は、太平洋戦争という大きな犠牲を払って獲得した戦利品ですから、それを手放すわけにはいかないのです。

アメリカによる”自民党支配”の歴史的起源とは

   そのアメリカの意思が形として現れたのが自由民主党だったということですね。

白井  本来であれば、1951年のサンフランシスコ講和条約をもって国家主権が回復るはずだった。国家が主権回復するということは、通常であれば外国の軍隊はいなくなることを意味するはずなのですが、アメリカとしては日本を引き続きしっかり押さえておく必要があった。そこでサンフランシスコ講和条約と「ワンセット」として日米安保条約が結ばれ、米軍の駐留は継続することになった。そして政治の面では、強力な親米保守政党を誕生させ、権力を委ねた。つまり極端な言い方をすれば、自民党はァメリカの「日本窓
口」としての役割を、誕生の瞬間から担わされていたということです。

 とはいえ、当時の自民党は、多様な政治的傾向を持つ人たちがたくさん集まっていました。実際、自民党最初の総裁となった鳩山一郎は、党内の親米派の反対を押し切ってソ連との関係構築に動きました。ロソ国交回復を花道に彼は引退します。
 その後、激しい総裁選の結果、岸信介を上回つて次の総理の椅子に座つたのが石橋湛山でした。彼はもともと経済ジャーナリストで、戦前から、「日本の植民地経営は割に合わない、植民地を全部捨てるべき」といつた論を掲げていた言論人でした。戦中もギリギリのところで弾圧を逃れながら、けっして筆を曲げなかつた。戦後は、吉田茂政権で大蔵大臣を務めましたが、「駐留費の過剰な負担はダメだ」といつたことをアメリカに対してはっきりと主張できる人物だったがゆえに一時は公職追放の憂き目にも遭ったという気骨の人でした。
 石橋は東西対立を絶対視しておらず、首相になるとすぐにアメリカ一辺倒ではダメだ、と発言します。見識、倫理御、首尾一貫性など、戦後の宰相の中で群を抜いた人物だったと言えます。残念ながら病気に罹り、石橋政権は短命に終わります。そして棚ぼた式に総理大臣の座を得たのが岸信介だった。きわめて悪運の強い男だったと言えます。

岸信介はA級戦犯でありながら、なぜか無傷のまま獄中から返り咲きました。

白井  裁判にすらかけられずに無罪放免になったわけですから、「謎」ですよね。彼は東條英機内閣の重要閣僚として、いわゆる軍需物資の調達なども含めて国の産業を指揮監督する立場でしたから、戦争遂行に深く関わっていたと言わざるを得ず、無罪放免を勝ち取るには何らかの取り引きがあったと考えるしかありません。
 これについては、岸自身が獄中で残した手記がヒントになります。塀の外では、中国で共産主義政権が成立し東西対立がどうも激しくなっているようだが、もっともっと燃え上がれば俺にも再起を果たすチャンスが巡ってくるぞ、と書いています。そして実際にそうなっていったわけです。
 東西対立が激しくなっていく中で、アメリカにとっての日本の占領政策の優先順位に変化がもたらされました。民主化を進めれば進めるほど、共産党や社会党などの親ソ的あるいは容共的な勢力が拡大してきてしまう。アメリカは国是であるデモクラシーを日本に移植したいと思いつつも、それをやると”戦利品としての日本”を失いかねないというジレンマに陥りました。そして結局、民主化よりも反共の防波堤としての役割を求めるということに優先順位が入れ替ゎった。この転換が世に言う「逆コース」ですが、それは朝鮮戦争の勃発によって決定づけられました。
 日本を誰に仕切らせるかということについて、GHQの内部でも、民主化を重視する派と反共主義を重視する派との間で激しい権力闘争が起きていました。結局、反共派が勝利したことで、GHQは戦前戦中の日本の保守勢力を呼び戻して再起用していきます。その中でもとりわけ重要な存在が岸信介だったとぃうことです。本来逃れようのない罪(A級戦犯)から助け出してやることで、アメリカは岸に大きな恩を売ったことになりました。
 そして、彼はその恩に報いるように、汗をかいて自由党と民主党の合同に奔走します。早い話が、今日まで続く白民党支配の歴史的起源は逆コースにあるのです。このことはどれほど強調しても強調し足りません。
 石橋湛山が倒れたことで総理総裁の座を得た岸は、大きな反対運動を乗り越えて1960年の日米安保改定に漕ぎ着けます。混乱の責任を取って内閣は総辞職するわけですが。

   1960年安保は、1951年安保条約よりも相対的には日米関係がやや対等になったという評価もありますが。

白井  1951年安保には、国内で民衆の反乱などが生じたらアメリヵが実力介入すると定めた内乱条項などもあり、日本の国家体制を決めるのは日本国民ではなく米軍だということが露骨に示されたものだったわけで、それと比較すれば、1960年安保は占領的な性格が多少削ぎ落とされたという一面はあります。しかし、この改定によって日米安保体制が無期限に続くことが運命づけられたと思います。もしも米軍がいずれ出て行くものであれば51年安保を改定する必要はなかったはずです。結局は、この改定によって、けっして対等ではあり得ない関係を永続化させていくことになりました。

   従属的な日米関係を続けていくことを選んだということですね。とはいえ、一旦は対米従属するけれども、その先には対米自立を目指していくという考えがあったわけですよね。

白井  ありましたね。いずれは憲法を改正して正面からの再軍備を果たし、対等な軍事同盟にしていこうという考えがあった。現実問題として、我々のことを戦利品だと思っているアメリカに対して、今すぐ出て行けと言ったところで出て行くわけがないから、まずは一歩ずつ、という考えもあったことでしょう。その意味では、戦後初期に大きな仕事をした保守系の政治家としては、吉田茂、鳩山一郎、岸信介の名前が挙げられると思うのですが、彼ら3人の共通点は、対米従属を通じた対米自立を志向していたということだと思います。
 朝鮮戦争が始まる中、アメリカの再軍備要求を吉田茂が押し返したのは、彼が新憲法の価値観を大切にしていたからというわけではなく、当時の時代状況として、「日本が本格的な再軍備などできるはずない」ということがわかっていたからです。食うや食わずの焼け野原からの出発で、当然ながら、国民の間にも厭戦感情が強くありました。この国をどう立て直すかということが喫緊の課題だったわけで、再軍備など後回しにして経済発展に100%注力していかなければ、自分たちの政権ももたない、というのが吉田茂の判断だ
った。その妥協の産物として警察予備隊を作らされるわけですが……。
 いずれは国家の自然権として軍事力を持つのは当然だということは吉田も考えていたわけで、ここにおいては岸の考え方と大差ないでしょう。タイミングの問題にすぎないのです。

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