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脱毛について思うこと

はじめに

お久しぶりです、ICU PRISMのメンバーのさりです。大学は一部を除いて今学期もオンラインですが、最近は家だと集中できないので漫喫やカフェでオンライン授業を受けています。支出がやばいです。これを読んでくれている方はいかがお過ごしでしょうか。

とある日の気づき


今日シャワーに入っていて、お風呂場にあるシェイバーを見てふと思いました。あー剃らなきゃなぁ。腕と、足と、わきと...。 中高の時に読んでたセブンティーンという雑誌の読者アンケートでは、ほとんどの女子高生は2日に1度剃っていると書いてありました。女性はツルツルに生まれたんじゃなくて、ほとんどの人はツルツルを作り出して、しかもそれを永久的に維持しているんですね。しかもその努力は隠しがち。また、肌が炎症を起こしたり、黒ずんでしまったりとトラブルが起こりがちでもあります。脱毛、”ムダ毛”処理は途方もない手間と肌へのストレスをかけている行為だと言えます。

「剃るに自由を」って言うけどさ


この間駅で、「#剃るに自由を」というキャッチコピーのもと女性が脇毛を見せている広告を目にしました。大手脱毛サロンも、美容に仕事に頑張る女性が、ふとしたときに自分の脇がツルツルなのを見て頑張ろうって思う、みたいなCMを作っています。最近は自分のために脱毛するっていうコンセプトが主流になってきているように感じています。それは女性の主体性を押し出していると言う点では一つのビッグステップだと思いますが、この変化は、少なからず男性の評価の目線が女性に内在化されているという現実をないことにして、「剃るべき」っていう考えを、今度はあたかも女性の完全な自由意志だけによるものかのようにするレトリックがあると思います。そうすると、「剃るべき」っていう考えは逆にさらに強固なものになってしまうかもしれません。

「#剃るに自由を」の広告の話に戻ります。例えばある女性が広告に感化されて剃らない選択肢をしたとします。もしその女性の考えが変わったとしても、社会的な女性への評価基準は劇的には変わってないわけだから、その女性がムダ毛を剃っていないことで嫌なことを言われるとか、不快な評価を受けるかということには、その広告や企業は責任を負わないわけです。先進的な広告だと評価される今回の広告を作った方達のインタビュー動画も見ましたが、「〇〇であるべきだ」という理想論にとどまっていて、現実を本当に見て女性の生きづらさを変えるための広告なのかは疑問に思ってしまいました。ムダ毛処理って、進んでやってるってより「女性でムダ毛が生えてることはあんまりよろしくない」って規範が関わってることが多いのに、なんで女性が困難をあえて選ばなきゃいけないんだろう。そしてなんでそれを「進んでる!」と絶賛するんやろ。

実際、毛を剃らないことはポジティブに受け入れられるわけじゃない。「女子はやっぱ毛薄い(無い)方がいいよね」っていう人なんて(ICUにも)ざらにいるし、もしそんな人を仲のよい友達やパートナーに選ばないとしても、そういうステレオタイプな発言を間接的にでも聞くたびに不快な思いをし続けるんです。それなら、無理してでも ”ちゃんと毛を処理してる女性の層” に入ってしまえば、とやかく言われる要素が一つは減ることになります。毛を剃るべきだっていう社会的な規範なんてくだらないって思ってても、自分をしっかり貫いて批判や”ふつう”をはねつけ続けられるほど自分は強くない。

他にも、他の人の目なんて気にするなとかいう広告もあるけど、社会に生きている限り完全に人の目を気にしないなんて無理だと思うんです。誰だってより良い評価をしてもらいたいっていう欲求はあると思うし、それを否定したり無視して強くいろ!っていうのはあまりに酷です。特に女性らしさに当たる要素がなかったり足りなかったりすることは、女性であることを否定されるかのような評価を受けます。女性に限らずとも、「男性なのに〇〇」とか、性別に起因する心ない評価は言われた人の心にずっと残ることがあるし、そうした発言や思考を自身がしていると意識できないほどに、ジェンダー・ステレオタイプは私たちに埋め込まれています。


つよつよであることを求められるフェミニストたち


SNSをはじめとしたメディアでの議論を見ていて思うのですが、構造的な差別や不平等におかしくね?って発言する人って常に、完璧さを求められていると思うんです。例えば、こういう被害を受けて、それが社会の問題じゃない?って声を上げるするしたら、それがその人自身の問題ではないと完全に証明しなければならない。おかしいじゃんって言いたいだけなのに、常にそれはあなたのせいとか、あなたがこうしてればよかったとか、考えすぎとか言われるわけです。嫌だと思ったらそれはハラスメントだし、おかしいと思ったら発言していいはずなのに、発言する人のあらさがしを第三者がするだけで、本当の問題を見ようとも変えようともしない。

また、おかしいと声を上げることは、今いる構造から抜けることとほぼ同じだと思っています。一般的な”女性らしさ”のなかに「おとなしい」とか、「従順」とか(いまだに)入ってる限り、声を上げることで女性らしくないことをたしなめられることもあるし、評価する対象である男性(とそれを内面化した女性)のこうした発言の根元に切り込むってことは、いわゆる「モテ」からは外れ、「めんどくさい」というレッテルを貼られることもあります。本当におかしいのは社会なのかフェミニストなのか、考えたり知ろうとする人はまだ少ない気がします。その分、一緒に変えようとしている男性のフェミニストの人を尊敬するし感謝しています。(女性じゃなくてもジェンダーにおける差別や不平等に反対する人のことをフェミニストって言うんですよー!でも「フェミニスト」と呼ぶべきとか、「平等主義者/ エガリタリアニスト」と呼ぶべきだとか、呼び方には論争があります。興味のある方はぜひ下のリンクを見てみてください。面白いです。)


つよつよじゃなくても

こんな感じで、何かのきっかけで「社会のここがおかしい、変えたい」と思って発信したり信条を持っていたりする人たち(ジェンダーの場合だとフェミニストたち)は、常につよつよであることを求められていると感じます。特にジェンダーだとそれが強い気もする。だから、自分も含めてこれ読んでる人たちには、自分大事にしてこーって言いたいです。楽しいこともあるけど、自分弱いな...って落ち込むこともめっちゃあって、サバイバルみたいな日常の中で今まで生きてきたのバリえらいわ!ってことで、モヤモヤは適宜発散しながら、当たりくじだけのくじ引きでも引きたいですね〜。次の記事でまたお会いしましょう。読んでくれて本当にありがとうございました。

追記

この記事をシェアしたとき、レディ・ガガやマドンナなどのセレブリティたちが自身の脇毛を見せている写真があるとPrismのメンバーから教えてもらいました。自分の影響力を、既存の枠にはまった「いい感じ」の有名人像に収めるのではなく、ロールモデルとしての自身を発信し、見る人をエンパワーすることに使っていて本当にかっこいいと思いました!

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