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言葉は止まるが心は止まらない

僕は、吃音症という障害をもっている。平たく言えば、流暢に話せないことがある。言葉がつっかえてしまう。今日は、そんな吃音に悩んできた過去と、いま、吃音について思うことを話していきたい。


流暢に話せない

吃音において、モヤモヤすることの1つに、流暢に(滑らかに)話せないというのがある。会話の途中でつっかえたり、言い始めの言葉でつっかえたりする。よく言うのは、口から外へ出るはずの言葉がブロックされる感覚。これによって、会話のテンポが変わったり、返事をしたいタイミングで声が出ず、上手く反応できなかったり、喋り始めの言葉が出ず、話すタイミングを失い、そのまま流れてしまったり、といったことが多々ある。
そんな時に、ちょっと落ち込んでしまう。
だが、吃音に対するモヤモヤはまだある。

話したいのに言葉が出ない

吃音のモヤモヤでいちばん古い記憶は、小学校4年頃だと思う。当時、保健委員会に所属していた僕は、大勢の人の前で委員会の人たちと一緒に、発表会をする機会があった。ひとりひとりに台本が手渡され、複数人でセリフを掛け合いながら、発表会は進んでいく。当然、僕の手元にも台本があり、ご丁寧にも、どこの箇所を読めばいいのか、マーカーまで引いてあった。だから、台本を見ればどのタイミングで何を言えばいいのかは分かる。あとは、台本に沿って喋ればいいだけ。…第一声が出なかった。セリフを忘れたとか、読み方が分からなかったとか、緊張しすぎた、とかならまだ分かる。でも、何を言えばいいのか頭ではちゃんと理解している。のに、言葉が出なかった。悔しかった。そして、本来、声が聞こえるはずのところで静寂が訪れる。周りがざわつく。声を出そうとするも、つっかえたらどうしよう、上手く喋れなかったらどうしよう、そんな想いが頭を支配する。また周りがざわつく。『緊張しないで』『ゆっくりでいいよ』そんな声援も聞こえてくる。みんなの視線が、意識が、自分に向けられる。もう喋れない。泣き出す。
僕は悔しかった。

“吃音症”という言葉との出会い

小学生当時の僕は、吃音や吃音症についてよく知らなかった。そんな言葉がある、自分と同じ想いをした人たちがいる、なんて思いもしなかった。そんな状態はしばらく続き、言葉が出ることにホッとしたり、言葉が出ないことに戸惑いながら、生活していたそんな頃。
正直もうあまり記憶が定かではないが、吃音についてちゃんと調べて向き合ったのは、大学生になってからだったと思う。自分以外のどもって話す人に会い、自分が吃音だとカミングアウトし、吃音について意識的に考える機会が増えた。自分のモヤモヤした状態に名前がつくこと。同じように生きている仲間がいること。そして、何よりも当時より少しだけ大人になったことで、自分の過去や感情に想いを馳せることができるようになった。ここからは、吃音に絡めて、吃音とコミュニケーションについて思うことを話していきたい。

“話す”以外のコミュニケーション

コミュニケーションには、話す以外にもいろいろなやり方がある。つまり、話し言葉を介さなくても、他者とコミュニケーションを図る方法はいくらでもある。僕みたいに、“話す”ことに苦手意識があっても、このブログみたいに、書いて伝える(文字で伝える)こともできる。話さなくとも、話を聞くことはできる。表情や仕草、態度で示すこともできる。極論、言葉がなくても、何もできない通じないわけじゃない。いままで、いかに話すか、どう伝えるか、あるいは、どう隠すか、いかに繕うか、ばかりに意識が向いていた。でも、それ以外のコミュニケーションも自分にはできると気づいた。意外と、ちゃんと伝わる。

話し方の“べき” “変” “おかしい” “ダメ”をいかに外すか

僕らは普段、他人と会話をするとき、無意識に話し方に優劣をつけていたり、話し方だけでその人を判断してしまってはいないだろうか。話し方は『こうあるべき』。話し方は『こうじゃなきゃいけない』。こんな話し方は『おかしい』。こんな『変』な話し方は『ダメだ』。
まぁ、当然、話し方が重視される場面もあると思う。状況によっては、話し方1つで上手く回るなんてのもあるだろう。それでも、一度、どんな話し方か、ではなく、何を伝えようとしているのか、にも意識を向けてみて欲しい。言葉がつっかえても、ゆっくりな話し方でも、早口でも、声の大小や喋る速度に違和感を感じても、それだけに囚われず、その人の言葉の中にある“想い”に耳を傾けて欲しい。これは吃音に限らず、すべてのコミュニケーションに悩む人、コミュニケーションを悩ませる人に言えるが…
時に、自分と異なる話し方に驚くかもしれない。戸惑うかもしれない。他人と異なる話し方に驚くかもしれない。戸惑うかもしれない。でも、それは自然なことだしそれでいいと思う。
驚いていい、戸惑ってもいい。
でも、否定しないで欲しい。攻撃しないで欲しい。馬鹿にしたり、からかったり、嘲り笑ったりしないで欲しい。その奇異に思える話し方の中には必ず大切な想いがある。それを大事にして欲しい。耳を澄ませて、心を寄せて欲しい。そこにこそ、真に、話し方に悩む人が生きやすくなる世界があると思う。

吃音症を“おもしろがる”

改めて言うが、僕の考える“おもしろがる”とは、【受け入れる、認める、寛容である、攻撃しない、否定しない、決めつけない、排除・排斥しない、意味や価値を見いだす等といった、総じて前向きで肯定的な姿勢】のことである。
吃音症という障害を否定的に捉え、隠そう、変えようとするのもたぶん間違っていないと思う。
でも、僕は、嫌だった気持ちも含めて、吃音と共に生きていきたい。誇れるまでは、まだいかないけど、受け入れて認められるくらいには、付き合えているつもりだ。
吃音であるからこその、可能性、効果、意味、価値、強みを大事にして、吃音である自分を、吃音症という障害を、【おもしろがって】生きたい。

おわりに

ここまで読んでくれた方(もしいれば)、どうもありがとうございます。
思った以上に、長くなってしまって申し訳ないです。でも、いまの僕が感じたこと、伝えたいことはできるだけ書いたつもりです。読みにくい箇所も多々あったとは思いますが、読んでくれた皆さまの意識や生活に少しでも影響を与えられたなら嬉しいです。
このブログでは、僕の日々、感じたこと、考えていることを発信していけたらと思っています。
尚、ブログのやり方も含めて、いろいろ勉強中です。なので、質問や改善点、要望などありましたら、コメントにて、ぜひ教えていただけると嬉しいです。感想なども、遠慮なくお待ちしております。もしよろしければ、ぜひ。
では、また、いつか。

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