芸術を言葉で認識したらそれは芸術ではない?

どうもみなさんこんにちは。多分読んでくださってる方なんていらっしゃらないと思いますがめちゃくちゃ久しぶりです。
最近は人生で初めて夜通しのイベントに行ってめちゃくちゃ刺激を受けたり楽しいことも悲しいことも沢山あって汗なのか涙なのか分からない液体に塗れた生活を送っています。(この文言は恐らくいつかこの文章を読み返している自分へのメモになるだろう…)
浪人生活も共通テストまであと半年近くでなかなか驚きです。

さて早速今回の話題ですが、今回は題名の通り芸術作品は言葉で認識したらそれはもう芸術作品ではないのではないかという話。

どういうことか。
例えば絵画。皆さんも「この絵は陰影が〜、」とか「色のコントラストが〜」、とか「対象の配置が〜、」とかなんとか講釈を垂れる知識ひけらかし自慰行為おじさんに遭遇したことはあるでしょう。しかし、彼らの説明とは裏腹にその絵画はその絵画としてでしか伝えられないこと、言語では伝えられないことを絵画という形態で表しているのではないしょうか。

もちろん全ての芸術作品になにか伝えたいことが込められているわけではなく、中にはただ無意味に自身の技術を誇示するために作られた作品であるとか、記念碑などのようなものもありますが、なにか作者によって特別な意図が込められている作品の場合、本当にそのような知識ひけらかしおじさんの解釈は赤の他人である作家が伝えたいことをその通りに説明できるのでしょうか。こんなこというと効率化に囚われたバカだと言われるかもしれませんが、伝えたいことが言語で伝えられるのなら言語で伝えればいいのではないでしょうか。(一般言語で伝えられることをあえて制約の元で伝えようとする芸術体系はまた完全に別の話ですが。)

それこそこんなこというと現代の芸術作品はなんでも記号化されすぎで最近の若者は全てのことに意味とか意義を求めすぎだなんて耳に鈍痛が走るようかことを言われるかもしれません。でも哲学大好き!論理大好き!な僕としてはあらゆるものに意味を見出したい。関連性を見出したい。因果関係を明らかにして一般法則を発見して世界の普遍法則を誰よりも早く理解したい。そして億万長者になりたい(笑)

億万長者になったら何をしますか?多分僕は好きな人から古着をを買います。好きな街でできるだけ多くの時間を過ごします。そしてTwitterを買収(笑)

脱線失礼。本題に戻ります。
芸術作品を言葉で解説したら、その解説は芸術作品の補助でもなんでもなくてただその評論家の一箇の戯言に過ぎない、妄言に過ぎない存在に成り下がります。要はその評論家によってオマージュされた新たな下位互換の作品となってしまうと僕は思うわけです。

そもそも僕が何故芸術作品が評論になってはいけないと考えるのか。
それは僕達人間が言葉という表現体系に多くを委ねすぎていると感じるからです。僕は言葉が大好きだし言語も好き。だからこうしてまさに取るに足らない評論とか思想をつらつらと書いているわけですが、それだけではなく、むしろそれ以上に人間という種であることを誇りに思っています。これは多分他の動物や物に生まれ変われたらいいなと思っていてもそれが叶わないから泣く泣く諦めて自分は満足してると言い聞かせているだけかもしれませんが、少なくとも満足しています。
そしてなにより、芸術作品を通してさらに優れた人間への手立てを発見したいと考えているからです。

優れた人間という言葉を見てこいつは危ない人間だと思ったあなた、安心してください。別に僕は神やなんかになろうとは思ってませんよ。

じゃあどうすればいいのか。
当然作品を見る時に言葉を使わなければ即ちその作品のありのままを受け入れられるでしょう。その時に受けた印象を言語化せずに映像や画像、音声や香り、味など作品そのものとして認識して記憶すれば、つまらない一個人の思想や語彙の乏しさによって歪曲された評論なんかにはなりません。

これらが僕の思う"さらに優れた人間"になるための方法であるこの世界を知覚、認識する手段をより増やしてこの世界をもっと様々な風に認識するということです。

しかしやはり僕達は前述の通り言葉に頼りすぎていて、歴史に普遍的な自然の景色とか僕たちの認識に対して圧倒的な出来事に直面すると皆取り憑かれたように無理やり言語化しようとして「言葉にできない…」なんて異口同音、稚拙な表現で片付けてしまう。

なぜその感情を無理に言語化して理性の範疇にねじ込もうとするのか。そうしたところで結果的に言葉にできないなんていう自分の語彙の不足を露呈させるだけじゃないか。
そもそもそんな必要なんてこの地球上どこを探しても存在しないじゃないか。言語だけでこの世界を知覚するなんて不可能なのだからもっと他の認識作用を開発すればいい。僕はそう思いますし何度でもこう主張したいです。

なんでも言葉に頼りすぎずあらゆる認識作用の可能性を模索すること、英語をなんでも無理やり日本語に訳しすぎないことと同じ感覚だと個人的には思っていますが、それは僕たち人間がひとつの芸術作品を通してさらに優れた人間になるための手立てとなるのではないかとおもいます。

これは僕の考えにすぎないのでもちろん無視していただいて構いません。でももし万が一共感してもらえたなら新たな世界の認識方法を模索してみると日々がもうちょっとだけ楽しくなるかもしれません。

長々と読んでいただきありがとうございました。

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