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”自由”って何なんだろうって話

この記事の対象者

・教育関係の職についている人
・「”自由”とは何か?」を考えたことがある人
・「なんで校則があるの?」と思っている人


1.”自由”について考えるきっかけ

まず、なぜ僕が、「”自由”とは何か?」を考えるに至ったかのきっかけを話す。

それは、約4ヶ月前の「ゆたぼんさんの金髪について」の動画である。

簡単に内容を要約すると、
「人気YouTuberのゆたぼんさんが、金髪で学校に登校し、先生と揉めた。」
というもの。

その動画内で、ゆたぼんさんは、
「髪型は個人の自由」
「校則は法律ではないから守らなくてもいい。」

といったようなことを発信していた。

僕自身、
「小学生から髪を金髪に染めることはよくない。」
「校則を破ることはよくないこと。」

と思いつつも、
「ゆたぼんさんの言い分も分からなくはないな。」
といった感覚になった。

それをきっかけに、
「自由って一体なんだろう?」
「校則って必要なのだろうか?」
「そもそも義務教育って何なんだろう?」

と思い、考えるに至った。


もちろん、こんな記事だけで結論なんか出やしない。
ここでは、僕の考えたことを共有し、僕自身のモヤモヤを晴らしたいという意図もある。

また、僕はゆたぼんさんを論破したいわけでもない。
今回は、この問題についての僕の思考をまとめるという意味で書いている。

ぜひ、感想や意見などのコメントをお寄せください。


2.”自由”とは何か?

先に述べたようなきっかけから、僕はまず、”自由”の言葉の意味について調べた。

【自由】(コトバンク)
1:自分の意のままに振る舞うことができること。また、そのさま。
2:勝手気ままなこと。わがまま。
3:《freedom》哲学で、消極的には他から強制・拘束・妨害などを受けないことをいい、積極的には自主的、主体的に自己自身の本性に従うことをいう。つまり、「…からの自由」と「…への自由」をさす。
4:法律の範囲内で許容される随意の行為。

正直、よく分からない。。。

ただ一つ気になったのは、
「わがまま」という意味も”自由”には含まれるという部分である。

僕自身、
”自由”にはプラスの意味ばかりだと思っていたが、
どうやら、「わがまま」というマイナスな意味もあるらしい。

ここで、「わがまま」という意味についても調べてみる。

【わがまま】(コトバンク)
1: 他を顧慮することなく自分勝手にふるまうこと。身勝手なこと。また、そのさま。
2:思うままに贅沢を尽くすこと。身勝手で奢っていること。また、そのさま。

なるほど、改めて意味を調べてみると面白い。

ここで、個人的な気づきを書く。

「自由」になくて、「わがまま」にある言葉である。
それは、”他”という言葉である。

これは僕のイメージでしかないが、
「自由」は「個人的に持っているもの」というイメージで、
「わがまま」は「他人を巻きこむもの」というイメージである。

要は、
他人のことを考えずに自分の都合で行うものが「わがまま」という行為なのではないかと考える。


ここで、ゆたぼんさんの事例に話を戻す。

僕は、彼の行為は「自由」は「自由」でも、「わがまま」の意味での「自由」だと考える。

なぜなら、彼は、
”他を考慮することなく自分勝手にふるまっている”からである。

ここで言う”他”とは、担任の先生だけではない。
同じクラスの子やその保護者、教育委員会の方にも、少なからず迷惑はかけている。

動画内では、
「クラスの子にかっこいいと言われた。」と言っていたが、それは実際そうなのだろうからいい。
ただ、周りの子がそれを真似したいと言い出したら、それを見たその子の保護者の方はどう思うだろう?

少なからず、いい思いはしないのではないかと予想する。

そういう意味では、
彼の今回の行動は、”他を顧慮していない”のではないかなと、個人的には思う。


3.校則は守らなくてもいいのか?

ゆたぼんさんは動画内で、
「法律は守らないといけないが、校則は守らなくてもいい。」
という旨の発言をしていた。

これについての言い分も、割とよく分かる。

実際に、僕自身、校則を破ったこともあるし、破ったからといって逮捕されるわけでもない。高校ならまだしも、義務教育である小中学校では、校則を破ったところで退学になることもない。

では、校則の目的は何なのかをまとめてみる。
話がややこしくならないようにするために、
ここでは、義務教育における校則について書いていく。


(綿密に調査したわけではないため、論が不十分なところはあるかもしれないがご容赦いただきたい。また、ご指摘もお願いします。)


デュルケームは以下のように言っている。

「子供が規則を尊ぶことを学び、またかくせねばならぬがゆえに自制し、我儘を捨てる習慣を身につけるのは、学校規則の尊重を通じてである。それは義務が持つ厳しさについての最初の体験であって、真摯な生活はまずここから始まる」

なるほど、要は、「きまりを守る」「わがままを捨てる」ことのトレーニング的な目的があると僕は解釈した。


また、刈谷はこう言っている。

「中学生時代の外見(服装や髪型など)が、そのまま大人になったときの『良い』状態とつながるわけではないことは、大人自身、自分たちの経験から実はよく知っていることです。(中略)校則の中身が何であれ、守るか守らないかが、学校に対する態度を判断する基準になるのです。」

少なくとも、「決まりを守る従順な態度」を育成しようとしていることは読み取れる。

ただ、ここで言う”良い状態”とは何なのだろう?

私は、ここで言われている”良い状態”とゆたぼんさんの”良い状態”とがずれているからこその議論のズレなのかなとも思う。

刈谷の言う”良い状態”とは、先にも述べた、「決まりを守る従順な態度」である。

しかし、ゆたぼんさんの主張する”良い状態”とは、ここは僕の想像でしかないが、「従来の決まりに流されない改革的な態度」であると予想する。


それを踏まえると、僕自身、どちらの言い分も分からなくはないなという気になってくる。


そこで、僕は”義務教育”に焦点を当てて考えてみることにした。


4.義務教育の意義とは?

義務教育について、文部科学省のホームページをあたってみた。
関連すると思ったところを抜粋する。

(1)義務教育の目的
・義務教育は欧米の発想で,教育が庶民にまで行きわたっていなかった時代に,国の力でどの子どもも学校に行くことを保障しようというもの。社会が豊かになった現在,その概念を考え直すことが必要だが,その際も,1.国家・社会の構成員としてふさわしい最低限の基盤となる資質の育成(社会の統一性・水準維持),2.国民の教育を受ける権利(学習する権利)の(最小限の)社会的保障という2つの目的は維持されるべき。

大切なのは、
1.国家・社会の構成員としてふさわしい最低限の基盤となる資質の育成
2.国民の教育を受ける権利の社会的保障
の2つだろう。

要は、「社会で生きていける力の会得」と「教育を受ける保障」が義務教育の目的だと分かる。

これを見ると、ゆたぼんさんは十分お金も稼いでるし、社会で生きていく力はありそうだなとも思えてくる。


・義務教育の意義は,1.国として,国民としての統一性や水準の維持,2.多様な変化の時代に生きていく子どもたち一人一人の個性や特性の基礎づくりの2点。

おそらく、校則の目的はここの1の部分に当てはまるのかなと私は思った。

”国民としてと統一性”を促進する1つの手立てとして、校則で統制しているとも解釈できる。


・義務教育の目的とは,「人間力」を備えた市民となる基礎を提供すること。つまり,社会に生きる市民として,職業生活,市民生活,文化生活などを充実して過ごせるような力を育むことと言える。これは,「生きる力」として文部科学省が教育改革の中で提唱してきたことと軌を一にするもの。

ここの記述は非常に興味深い。

簡単にまとめると、
「”人間力”=職業生活・市民生活・文化生活を充実して過ごせる力」であり、それを身につけた市民を育成するのが義務教育の目的だ。
ということである。


それでは、職業生活・市民生活・文化生活する力とは何か、自分なりの解釈をまとめる。

・職業生活する力
社会に出て働いて生活していく力
・市民生活する力
周りの市民と折り合いをつけて生きていく力
・文化生活する力
時代の変化によって変わる文化的生活に順応していく力

以上のように解釈した。


これをゆたぼんさんに当てはめると、
職業生活する力と文化生活する力については、彼は会得できているのではないかと想像する。
実際に、YouTuberとして活躍しているし、文化的生活をする資金も持っている。
羨ましい限りである。

しかし、市民生活する力については、まだ不足しているのではないかと考える。
少なからず、周りと折り合いをつけることができずに、今回の炎上のような騒動を起こしている。
また、動画内での煽るような態度についても、市民生活する力が備わっているようには個人的には思えない。


以上が、義務教育における意義についてである。

担任の先生は、上記のことを踏まえて教育活動を行うため、やはり、校則は守るべきというのが学校の主張だろうと思う。


5.今回の件考えたこと

正直なところ、
「校則は法律じゃないから破ってもいい。」
というのは、かなりグレーゾーンだと思う。

「法に触れなければ何でもやっていい。」という考え方では、やっぱり人としてどうかなという感情に、個人的にはなってしまう。

要は、”善し悪しの判断材料をどこに重きを置くか?”で変わってくると思う。


動画を見ると、
ゆたぼんさんは、「法律に触れるかそうでないか?」を判断基準に行動していると想像できる。
ちなみに、僕は、「人に迷惑をかけるかかけないか?」を判断基準に行動することが多い。

ここで重要な視点は、
”どっちが正しくてどっちが正しくないか”ではないというところである。

実際に、ゆたぼんさんは法律には触れていないし、めちゃくちゃ悪いかと言われればそうではないと思う。


こういう、かなりグレーな部分を攻めてるために、このような炎上に似た騒ぎになったのかなと思う。


YouTubeのコメントにあった例が、かなり秀逸だったので記述しておく。

「結婚式に喪服で行くか?といったような感じ。」

実際に、法律では、
「結婚式には喪服で行ってはならない。」
という記述はない。

じゃあ、だからといって「喪服で行っていいか?」と言われるとそうではない。


6.まとめ

僕は、ゆたぼんさんの動画は、非常に的を得た、かなり嫌な部分を攻めた内容だと思った。

なぜなら、「そう言われればそう」だから。

ただ、人と関わりながら生きていく上で、それでは人間的に深みがないようにも感じて、寂しい感じがする。

少しでも後ろめたさがあるのであれば、人のあげ足を取るようなことはやめた方がいいのかなとは、個人的には思う。


今回はこんなところです。



いえち

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