いえち

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考え事の蓄積と備忘。 哲学することが好き。 たまに熱量のある記事を書く。 https://bookmeter.com/users/1432399

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「本屋に行く人は頭がよくなる」

「本屋に行く人は頭がよくなるらしいよ」 高校生の時、幼馴染に言われた言葉だ。 今でも、本屋に行くたびにこの言葉を思い出す。 当時高校生だった僕は正直にその言葉を受け取った。 「へ〜、本屋に行くだけで頭が良くなるんだ」 「本屋に通えば、大学も受かったりすんのかな?」 「なんか自然と知識が身についたりすんのかな?」 とか思いながら、学校帰りに本屋に寄ったりしていた。 最近まで漠然と、 「本屋に行くと自然と本を手にとって、知識が増えてくんだろうな」 と考えていた。 し

    • お金以外の見返り

      社会人になると、何かにつけて”お金”というものがついてまわってくる。 今の世の中を見ると、 お金になることはやる。 お金にならないことはやらない。 といった判断を下しがちではないかなと思う。 わかりやすい例で言うと、 ・自己投資のために読書をする。 ・セミナーに行く。 ・語学を勉強する。 こんな感じの行動をとりがちだと思う。 もちろん、これらの行動を否定するつもりは全くない。 僕が懸念したいのは以下のようなこと。 ・自分の成長だけに目がいって、視野が狭くなっ

      • 「ポイ捨てしても自然に還る」

        以前、『紙ストローが嫌いすぎる』という記事を書いた。 この記事で”紙ストローのメリット”としてあげたのが以下。 こちら、ネットから引用してきたメリットなのだが。 「ポイ捨てしても自然に還る」 これは、メリットなのか?と思った。 確かに、プラスチックが自然に良くないという理屈は分かる。 それに比べて、紙がそこまで自然に悪くないというのも分かる。 ただ、これをメリットに書くのはちょっと違うんじゃないかなと思う。 ・自然に還るというのを言い訳にポイ捨てを助長していな

        • 血の通った人が好き。

          元明石市の市長、泉房穂さんの著書を読んだ。 率直な感想。 「血の通った人だなぁ」 と思った。 以前から、 「政治家の人って、血が通ってない感じがするな」と思っていた。 泉さんは、それを感じさせない、血の通った政治家のような気がした。 そこで浮かんだ疑問。 ・なんで政治家って血が通っていない感じがするんだろう? ・血が通ってる人と通ってない人の違いってなんだろう? ・どうすれば血が通った人になれるのだろう? ということ。 まず、僕が血が通っていないと感じた

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          「かもしれない」が足りていない。

          今の世の中、「○○かもしれない」が足りていないと思う。 ・他人には言うけど、自分ができていないのかもしれない。 ・実は、こんなに働かなくてもいいのかもしれない。 ・自分って、毒親なのかもしれない。 ・お金って、実は必要ないのかもしれない。 ・いや、お金はやっぱり必要!なのかもしれない。 「かもしれない」をつけることは、哲学的に物事を考えることに似ている気がする。 今の世の中、白黒はっきりつけて考えることが流行りがちだ。 ・ショート動画では、短い時間で結論が手に

          「かもしれない」が足りていない。

          あおり出勤

          先日、”あおり出勤”をしているサラリーマンを見かけた。 「あおり出勤」とは、僕が作った概念である。 東京の朝は、”あおり出勤”が横行しているように感じる。 ・時間的な余裕 ・空間的な余裕 ・精神的な余裕 ・金銭的な余裕 いろいろな余裕の無さから、”あおり出勤”のような行動が起こるんだろうなと思ったりする。 ・満員電車が嫌なら、早い時間に出勤すればいい。 ・急いでいるなら、10分でも早く家を出ればいい。 ・早く起きれないなら、早く寝ればいい。 どこか自分で解決で

          あおり出勤

          優しくないわけではない

          東京での話。 「優しい人が減ったのではないか?」という話を耳にする。 よく引き合いに出される話で言うと、電車で席を譲らない人が多いという話。 この間、電車で席を譲っている人を見かけた。 車内は、席は埋まっているが、さほど混んでおらず、多少余裕のある感じだった。 それを見て思ったこと。 「優しくないわけではない」ということ。 「多すぎるだけなのでは?」ということ。 何が? 人とか お金とか 建物とか 仕事とか 欲望とか ストレスとか 考えることとか 将来へ

          優しくないわけではない

          他責は自責になるし、自責は他責になる。

          会社では、 「問題を他責化するな、自責化して考えろ!」 学校や家庭では、 「人のせいにするな!」 と、よく耳にするのではないだろうか? 社会で生きていても、 「そういうのは自己責任だから」 みたいなことを耳にすると思う。 最近の気づき。 「他責は自責になるし、自責は他責になる」 ということ。 まず、 「他責は自責になる」について。 例えば、部下と上司がいたとする。 この例において、部下は「時間がなかった」と他責化している。 それに対して、上司は「他

          他責は自責になるし、自責は他責になる。

          紙ストローが嫌いすぎる

          「紙ストローが嫌い」という話は、結構耳にする。 ・飲みづらい ・臭いが気になる ・不味い ・独特な違和感がある ・ふやけて使えなくなる ・唇にひっつく などなど… ググれば嫌いな理由がたくさん出てくる。 あと、調べてみたが、特にエコというわけではないらしい。 ・燃えるゴミで処分できる ・ポイ捨てしても自然に還る ・企業イメージが良くなる というメリットはあるみたいだが、いまいち釈然としない。 まぁ、いろいろと書いてみたが、僕が紙ストローを嫌う理由は上記のような理

          紙ストローが嫌いすぎる

          「ぼく、お勉強楽しい?」

          朝の9時、コメダ珈琲にて、 ”5歳くらいの子どもに勉強を教える教育ママ”を見かけた。 「なんでここに線をひいちゃうの!」 「話は最後まで聞く!いい?」 「これとこれは仲良しじゃないでしょ!」 「わからないことをそのままにしないの!」 「お勉強してんだよ!ちゃんと見ろよ!」 みたいに、語気を強めて指導していた。 それを見て、複雑な感情になった。 「なんだかな〜」と思った。 僕の問いを羅列する。 ・なんのためにやってるのだろう? ・これは誰のためにやっているのだろう

          「ぼく、お勉強楽しい?」

          イヤホンを外すと目が良くなる

          「イヤホンを外すと目が良くなる」という仮説。 というより、そういう体験をしたという話。 まずは実体験を話す。 仕事をしていた僕は、目のパサつきが気になりコンタクトを外した。 しかし、その日は眼鏡を忘れており、裸眼で帰宅することに。 イヤホンでラジオを聞きながら帰っていたのだが、何となく歩きづらい。 ラジオも頭に入ってこなかったので、イヤホンを外してみた。 すると、歩きやすく、何となくだが、目が良くなった感じがした。 こんな感じの体験をした。 この体験を踏まえて

          イヤホンを外すと目が良くなる

          やりたいと思ってもできないバグ

          人間、やりたいと思っていてもできないことが多い。 例えば。 ・ダイエットしたいのに、食べちゃうし。 ・資格を取りたいのに、勉強しないし。 ・筋トレしたいのに、続かないし。 こんな感じで、やろうと思ってもできない事が多い。 これ、普通に考えておかしいと思う。 なんで、やろうと思ってもできないのか? なんで、やろうと思ったことができないようになっているのか? なんで、やろうと思ったことができるシステムになっていないのか? どう考えても、「思ったらできる」というシス

          やりたいと思ってもできないバグ

          制限が人を豊かにする

          「制限が人を豊かにする」という仮説。 根拠はまだない。 「お金」を例に考えてみる。 前提として、「お金はたくさんあった方がいい」と思いがちだ。 実際に、SNSなんかでは、 「こんだけ稼げました!」 「こんな裕福な生活しています」 みたいな文言をよく耳にする。 うん。確かに裕福ではあるのだと思う。 が、豊かかどうかはちょっと微妙だ。 僕の体験を少しだけ。 僕は最近、お金を使い過ぎていたので、パートナーに頼み、お小遣い制にした。 月3万円でやりくりをしなければな

          制限が人を豊かにする

          ”凄腕”の営業マンからは買いたくない

          過去記事から引き続き。 ”凄腕”と言われている営業マンからは買いたくない。 なぜなら、うまくしてやられた感を感じてしまうからだ。 個人的な”凄腕”の営業マンのイメージは、 ・行動社会学や心理学を用いて納得させようとしてくる。 ・ガツガツとしていて、向上心に満ち溢れている。 ・仕事やお金のことを常に考えて行動している。 こんな感じのイメージだ。 もし、自分が”凄腕”の営業マンと、何かの契約を結んだら、 ・なんか負けた気がするな。 ・お金を持ってる人にお金を流してし

          ”凄腕”の営業マンからは買いたくない

          高いスーツを着た営業マンからは買いたくない

          高いスーツを着た営業マンからは買いたくない。 なぜなら、「自分をよく見せたい」という利己的な人に見えるからだ。 エピソードを一つ。 最近、近所で家を売っていた。 そこで、営業マンが家族に対して、家を紹介していた。 その営業マンの容姿について。 ・結構高そうなグレーのスーツ ・髪の毛ワックスガチガチのバチギマリ ・靴もピカピカでとんがってる ・時計もめっちゃ高そうなやつ とりあえず、”The 営業マン”といったような風貌だった。 捻くれ者の僕は、その人を見て、

          高いスーツを着た営業マンからは買いたくない

          「お」と「円」をつけてほしい

          「金」 「100万」 このような言葉を聞いた時、「お」とか「円」とかをつけてほしいなと思う。 「お金」 「100万円」 なんとなく、お金を大事にしてそうな感じが伝わってくる。 最近、電車でサラリーマン風の人が話していた。 「3000万でいけるっしょ」 「そんくらいの金なら大丈夫じゃね?」 みたいな会話をしていた。 その時僕は、なんとなく嫌な感じがした。 「これは、自分がそんな大金を持っていないことによる妬みなのか?」 とも思ったが、多分そうでは無い。 お金

          「お」と「円」をつけてほしい