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郊外にて(短編小説)

一週間前に首都圏に降った雪は残雪になり、やがて溶け、後に春先の予感が残ると思われた。

確かに日中は労働者用のダウンは少し暑い、山田はネッグウォーマーを朝に玄関先で少し迷った後に脱いだ自分の季節の感覚を正しいと思った。

首都圏から少し離れた、ベッドタウンとも言えない郊外の工場の警備員アルバイト、それは何時もの派遣会社の仕事ではなく、知り合いに頼まれた穴埋めの仕事だった。

穴埋めの仕事であること、そこで働く百余名の人数の中で山田が珍しく若者であること、それを抜きにしてもその仕事は退屈だった。

居てもいなくてもいい仕事を山田は好んで、短期アルバイトを入れることが多かったが、最近は何ともつかない出費に多くの生活費が消えていたので、暫く救急病院の清掃アルバイトをしていた。

それは単純な肉体労働で、特に奇異な体験をもたらすものではなかったが、山田は、居ないと組織が成り立たない仕事というものも悪くないと思ったのだった。

しかし割の良さだけで続けていると、その厳しい肉体労働の入れ替えの早い組織では、山田が熱心で吸収の早い若者であることもあって、新入りの若者に指示を出したり、山田より長いのに未だ仕事の抜けの多い年配に指摘を出したりするようになり、その頃には山田は元の居てもいなくてもいい職場を探していた。

この工場の警備の穴埋めの仕事をくれたのは、高校時代の友人である加藤だったが、加藤はどうやら合宿で免許を取るらしく、東北の外れの何処かに二週間ほど出かけていた。

仕事の依頼をするような仲であるので、山田と加藤はそれが入り込むほどの丁度の良い親しみのなさというか緊張感があった、二人で飲むほどではないが四人で飲む時は顔を合わせる、高校時代にしていたことは何となくわかるが今何をしているのかは断片的にしか分からない。

しかし山田は加藤が二人で飲みに行こうとしないこと、高校を卒業して二人の友人関係など進みようがないこと、あるいは誰ともこれ以上親しくならないようにしていることに好感を持っていたので、仕事の依頼も理由なく許諾したのだった。

一応穴埋めの仕事なので、と穴を開ける理由は合宿免許であることを加藤は教えてくれたのだが、なぜ加藤が今更免許を取ろうとしているのか、なぜ通いではないのか、は分からなかった。

おそらく先日から出ているようで、山田に言いはしなかったが、インスタグラムのストーリーには、おそらくスキー場でも近いのだろう、ゲレンデの景色や食堂のカレーなどの写真が続け様に上がっていた。東北の外れ、というのも位置情報が貼ってあったから分かったことだ。

音を出してみれば、食堂では大きな音で近日に来日公演をしているテイラー・スウィフトの「22」がかかっているようだった。
確かにあの曲が出た時は山田は十歳だった、勿論テイラーは二十二歳だった、ということはテイラーはもう三十を超えている。
最後に山田がテイラーを聴いた時はコロナ禍で「folklore」がリリースされていた時だった、しかし最近では聴かない。

工場の警備のアルバイトは、車両誘導と人間の誘導の二つだったが、山田は穴埋めだからと適当な場所の関係者入口に立たされ、関係者以外の立ち入りを止めることと関係者の身分を確認する仕事を与えられた。

誰も通らないので暫く立っていた。
山田に仕事を与えた上司らしき男は場所を案内した後に再集合の時間を告げて元の持ち場であろうところに戻っていった。

山田は本を鞄ごと待機室に置いてきたことを後悔した。
まさかスマホを見るわけにも行くまい、関係者入口は路頭に面していて、工場に関係のない人々が行き交っている。

山田は市役所に勤めている小田のことを思った、小田は市役所の仕事は市庁舎でパソコンを叩くことではなく市の管轄する公の仕事の全てに顔を出すことだと言っていた、小田もこういう仕事をすることがあるのだろう、しかし小田はスマホも見れないし本も読めないのだろう、小田の口ぶりによれば世の中の人間は公務員を自分の税金で飯を食っている人間だと思っているらしく、何をしていても苦情が来るし、賃金を上げるにも住民に伺いを立てるようにしなくてはならないようだった。

でもクビにならないだけマシだろう、といつかの居酒屋で山田は言うと、出来ない奴をクビにしないということは出来る奴を評価しないことと同じだ、と小田は言った。

小田が自分を出来る人間だと思っているのかは分からなかったが、何をするにも苦労をするのだ、と言いたいのだろうと思い、山田は、そう言うなよと枝豆を勧めたのだった。

色々なことを思い出す程には暇だった。
何分程立ったのだろう、休憩は何時と言っていたか忘れた、山田は時間を確認したかったが、腕時計をせずに生活しているので、それには携帯を見る必要があったので、やはり何分経ったかは分からなかった。

暫くすると、中から中年風情の作業着の男が出てきて、山田に会釈をすると、路頭を通り抜けて何処かに消えていった。

そしてまた暫く山田がぼうっと立っていて、道端のユリの蕾を見ていると、その男はコンビニエンスの袋を手に、湯を入れたカップラーメンの蓋を抑えながら歩いてきた。

仕事か、と思い、山田が側に寄ろうとすると、男は山田に少し会釈をして「お疲れ様です」と労働者特有のハッキリした挨拶を低く深い声でした後、作業着にぶら下げた社員証を、ドア脇の機械に通して中に入っていった。

山田は中途半端に寄った距離からドアを眺め、いよいよ本当に居なくていい仕事じゃないか、と思った。

山田はポケットに確かな膨らみがあることを確認して、確か駐車場脇に喫煙所があって来た時に見つけて吸った、あそこはここから少し回れば着くはずだ、と思って歩き出した。

歩きながら携帯を見ると、四十分ほどしか経っていなかったが、ばれないようにそこかしこを見物しながら立っていれば終わるだろうと思い、しかし本当に暇な仕事というのもあまり良くはないな、と思った。

喫煙所に着くと、脇に自販機があり、山田は財布もまた本と一緒に待機室にあるなと思ったのだが、最近周りに現金暮らしをしていることを揶揄されることが増えてPayPayを始めたことを思い返し、それはやはり長年の感覚で試しに一度使っただけなのだった、缶コーヒーを買おうと思ったのだが、その自販機は旧型で電子決済には対応していなかった。

山田は、まぁいい、と思い、喫煙所でゆったりとセブンスターを吸った。働いていないで吸う煙草は居心地が悪い、と一口目を吐き出す時までは思っていたのだが、天気も良いし少しは風が吹いていることに気づくと、全てがどうでもよく、美味かった。

半分ほど吸うと、山田より少し歳上に見えるが中年ほどではない、やはり作業着の男が煙草を咥えながら喫煙所に寄ってきた。

山田は昼休憩の時間だろうか、長居したつもりはないが戻らなくてはいけないのかもしれない、その前にあの男に何か言われるだろうか、と思ったのだが、男は喫煙所の少し手前で火をつけて、咥え煙草をしたまま自販機で缶コーヒーを買い、寄ってきて、灰皿に灰を落とした。

山田は、お疲れ様です、と言った。
男は、うん、と、おう、の間の声を咥え煙草をしながら出して、缶コーヒーのプルダブを開けた。

山田は昼休憩の時間を思い出したく、昼休憩ですか、と尋ねた。
男は、いや、まだ、と答え、山田を訝しむように見つめた。
山田は、別に取り立てて問題はないが、時間の決まり切った工場で昼休憩の時間を間違えて尋ねるのは可笑しいことだったのかもしれない、と思い、今日だけ警備のアルバイトで、と付け加えた。

男は、あぁ、と、うん、の間の声を出して煙草を吸って、缶コーヒーを飲んだ。
山田がその様子を眺めていると、男は山田に目を向けた。

男の目は酷く茶色かった。この工場が何を作っているのかは知らないが、何か強い光を浴びているのかもしれない。
男は口を開きかける、山田は自分より歳の上の、かといって離れ切ってもいない年齢特有の顔付きに少し竦む。

「喉が渇いているんですか」
「あぁ、いや、自販機で缶コーヒーを買おうと思ったんですけど、PayPayで払えなくて」
「あぁ、そう、最近は便利だけど、ほら、工場だから、遅れた奴しかいないんですよ」
「はぁ、そうですか」
「サボりですか」
「えぇ、まぁ、ほんとに居てもいなくても変わらないんです」
「あぁ、えぇ、そうですか、私はそうでもないですけど、まぁ年齢が立てば少しの休憩くらいはね」
「そうなんですか」
「工場ってのはね、指示を出すようになると仕事に満足いかなくなるんですよ、肉体労働してナンボのような人間ですから」

「缶コーヒー、買ってあげますよ、ここ、工場ですから種類は色々ありますよ」
「あぁ、そう、ならエメマンがいいんですけど」
「残念だな、ここはサントリーなんですよ、提携してて」
「あぁ、なら、同じ奴がいいです」

男は煙草を灰皿に入れて、ジュッと音をさせてから、また咥え煙草をして、自販機に寄った。
作業着のポケットから小銭を取り出して、缶コーヒーを買い、こちらに戻ってくる。
山田は三本目の煙草に火をつける。

「はい、これ」
「どうも」

山田はプルダブを開けて飲んだ。微糖の缶コーヒーは熱く、それがまだ春の来ないこの郊外に吹く風に心地良い、と思った。

男は、じっとこちらの様子を見ている。山田は、ご馳走様です、と言いながらセブンスターを吸った。

男は茶色の澄んだ目をしている、それを山田に向けている、山田はそれが妙な緊張感を与えている、と感じながら、なぜか男のその茶色の澄んだ目を見返す。

男が徐に口を開く。非常に話しにくい話なんですが、

「あなたって週に何回自慰行為をしますか」
「じい」
「オナニーのことです、マスターベーション」
「昔よりあまりしなくなりましたね、しない日の方が多い」
「あれね、私三十五ですけど、まぁたまにするんですよ、貴方何歳ですか」
「二十半ばです」
「じゃあ分からんでしょうが、三十を超えても意外とするものなんですよ、私もまぁ人並みに性欲はありますから」
「はぁ」
「私最近結婚したんですね」
「えぇ、めでたいことですね」
「しかしどうにも、夜の後、嫁の身体が凄く冷え込んでいるような、触れているとそんな気がして、それで嫁が目を開いてこちらを見ると、その顔にどこか昔か今かあるいは未来か知らない、重たい他の男の影を見るんですね」
「はぁ、よくはわかりませんが」
「それで自慰行為の方が増えたんです、よく言われるほど、する時間や機会がないことはないですから」
「えぇ、まぁ、そうなるのか」
「するとね、射精した後に私の身体が冷え込むんですよ、その後何食わぬ顔して嫁と話していると、嫁ではない誰かと話している気になるんです」
「考えすぎではないですか」
「いえ、女と暮らし始めると、自慰行為が何か、そうですね、十代は好奇心、二十代は有り余った活力の行き場で、それらには汗ばんだ健康があったんですが、今となると、何か深く冷えていくものがあるんです」
「はぁ」

気づけば山田も男も煙草を吸い切って捨ててしまっている。山田は缶コーヒーもそろそろ飲み終わる、男はとうに飲み終えている。

山田はその男の澄んだ目に竦むところから、顔を出して時間を確認する。そろそろ戻った方がいい。

「すみません、何も力にはなれないけれど、僕はそろそろ行かなくちゃ」
「いえ、缶コーヒーを人質に聞いてもらってすみませんね」
「いえ、では」

山田は持ち場に戻っていく。その時、山田はこれまでの女との関係を考えていたが、それらは断片的なもので、山田を何か位置付けるようなものはなかった。

山田は高校時代に先輩に風俗に連れて行かれたことを思い出す、それは夏の初体験だった、早生まれの山田は十五歳だった。
その相手の女の姿はボヤけていたが、この前にその風俗のある街を歩いていた時、黒服と女が話していて、その女はどこか山田の初めての女に似ていた。

しかしそれはその女であるはずがなかった。その女は似てはいたが、これまで経った年月を考えればあまりに老けていなさすぎる。

山田はそれを思い出しながら、その風俗の個室の片隅で、女がネグリジェを片手で弄びながら、貴方は風俗に二度と来ないようだから言うけれど、私は二十七だ、と言ったことを思い返した。

あの喫煙所の男と同じ歳だ。
あの女と寝た時は喫煙所の男の性生活には翳りはなかった。

それがどうという意味を持つのか、山田には理解しかねた。
山田はまだ汗ばんだ健康を持て余した青年だった。
そして分かりたいわけでもなく分からされる日が来ることに山田は少し恐怖した。

山田は、以前の病院の清掃アルバイトで知り合った佐々木という女を思い返した。
佐々木とは何度か一緒になり、連絡先を交換した、アルバイトを辞めてからは会っていないが、偶に連絡が来る、そして連絡が来ると連絡してしまう、そのうちに会おうかと思っていた。

佐々木は年齢がいくつだっただろう、山田は、佐々木や山田が指示を出した新人、山田がミスを指摘した年配にも、それぞれの性生活の翳りと自己否定と自己肯定があり、それらを着実に繰り返しながら生を営んでいること、それがあの薄暗がりの病院で清掃をしていたことを少し恐ろしく思った。

山田は通る途中の生垣のユリの蕾を見た。
生を持て余している間は敏感でなくてもいい、と山田は感じた。どうせ咲いてしまう、どうせ翳りが顔を出す。

男の光を浴びすぎた茶色い目に映った山田は確かに健康的な若者だった。

山田は持ち場に戻り、ぼうっと立ちながら、昼休憩の時間を聞くのを忘れた、誰かが教えに来てくれるのだろうか、と思った。

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