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わたしがわたしを司る|動きの自己観察

オルタナティブスクールで教員をしています。コロナ休校をしなかった我が校(小規模)も、なんとか無事に、春休みにすべりこむことができました。

世の中は大変なことになっています。いろんなことが立ち行かなくなり、不安でいっぱいの方もおられるでしょう。

幸いにも、わたし個人は大きくゆさぶられることなく過ごせています。春休みということ以外は、比較的いつも通り。

それでも外出自粛やら、経済的な打撃やら。何にも影響がないわけではなく、微妙にフラストレーションを感じることがあります。

今朝も、もやもやと考えこんでいました。そして、ある"ことば"がふと蘇ったとたん、気持ちが楽になりました。

ちょいと長め文章ですが、その"ことば"にまつわるあれこれを書いてみたいと思います。

わたしがコロナ騒動で一番「ゆさぶられ」るのは、余裕をなくした人々による不機嫌に遭遇すること。自分に直接関係がなくても、人が著しく「ゆさぶられ」ているのを見るだけで、結構身にこたえます。

たとえば、電車の中で咳をすると睨まれる、差別的な扱いを受ける等。コロナとは関係ないところでも「しわ寄せ」や「八つ当たり」、「憂さ晴らし」を感じることがあります。

大変なときなので、そんな人たちを責めたいわけではないのですが、わたしは同じ空間に不機嫌な人がいると、自分まで落ち着かなくなるタイプなんです。そのことで、少しだけ困っています。

火の粉が飛んでくるんじゃないかとハラハラするし、もしかして自分のせい?と謎の罪悪感や遠慮が出てきたり。

あれ、あんまりコロナと関係ないかも?でも、コロナちゃんのおかげで、日頃から自分の携えている問題が見えやすくなっていることは確かです。

昨日は、そんなモヤモヤをひたすら自己観察していました。

わたしはいつも通りにのびのびと過ごしたいだけなのに。ただ、安心・安全を感じたいのに。自分の行動が、他人に制限されてしまうのはいやだ。

でも、わたしの行動を制限しているものって一体何だろう?

ウイルスの蔓延?自粛要請?自粛ムード?他人の不機嫌?

それって、わたしがどうにかできること?

勝手に遠慮しただけでは?

その気になれば、違う選択ができたところもあったのでは?

・・・・・・

冷静に考えてみると、

自分にコントロールできないことまで問題にしていたし、反対に、自分のコントロールに属するものを人に委ねてしまっていることが見えてきました。

つまり、課題の分離というのができていなかったんです。

まずは、他人に行動や気分を左右されているブレブレな自分を自覚すること。

それから、自分にできる範囲のことを淡々とor遊び心をもってやっていこうと思うのでした。

そんな意識へと、スイッチぽん!してくれる魔法のことばがこちら。

わたしがわたしを司る

一瞬で真ん中に帰ってこられます。

このことばに出会ったのは、数年前、オイリュトミーの授業(@シュタイナー教育教員養成講座)を受けていたときのことでした。

※オイリュトミーって何?という方はこちらの記事も読んでみてください。

間違うのが怖くて、自分の判断に自信がなくて。みんながみんな、様子を見ながら動いていたときでした。

音楽にあわず、モタモタ、ドタバタ。なんだか重たい感じです。

そんな「やらされている」感満載の空気に対して、先生がピシッと言い放ちました。

動き方は決まっていますよ。でも、よく見て聴いて、まわりを感じながら、次の動きはこうだって判断するのは自分自身。「わたしがわたしを司る」という意識が大事。その判断が間違っていてもいいから、堂々とやろう。やる前から自分を評価しないこと。

その直後、実際にひとりひとりが「わたしがわたしを司る」と思って動いてみると・・・空間がガラリと変わりました。それはもう、シャキシャキッという音が聞こえそうなくらいに!

しかも、そう意識したほうがバラバラせず、全体がうまく調和しているように思えました。あの体感は忘れられません。

このとき、自分はこれまでお客さん意識で学びにきていたなぁと気がついて、めちゃめちゃ反省しました。この講座がわたしに何をしてくれるんだろう?って。

そうではなくて、わたしはここで何を学ぶのか、何のために学ぶのか?という意識で臨まなくちゃいけなかった。

もっというと、教員は「こうだよ」とみんなに示していく立場なのに、自分のことも自分でリードできなくてどうする!!

わたしがわたしを司る

このことばが、わたしの目を覚まし、無数の行動を変えてくれたのでした。

制限の中にもできることがある。たとえ選択の余地がないような状況でも、自分で動機づけをして取り組むことはできる。それが、精神の自由。

これは、『夜と霧』(※)のフランクル氏の考えにも通じるところがあると思います。※精神分析学者によるナチス強制収容体験をつづった書

わたしが人生に何を期待しているか?ではなくて、人生がわたしに何を期待しているか?という視点を持つ。

この難しい状況を生きのびるにあたって、力が湧いてくる考えです。

あぁ、思い出せてよかった。本当に本当に。

ここからは、自分への注意書き。

他人に左右されないことと、他人を無視することとは違う。

わたしはわたしの意思で、他人に「はたらきかけ」ることもできる。

「はたらきかけ」た結果、誤解されることも、届かないこともある。

それでも、自分を責めないこと。

わたしが「はたらきかけ」たくてそうしたのだから、どんな反応が返ってきても、それをそのまま受け止める。

わたしはわたしの意思で「はたらきかけ」た、それで十分。

サポートしていただけたら、毛糸を買って何か編みます☆彡