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ぼんぼりの森

紫陽花のぼんぼりが雨の町を照らす季節は、一日の気温差が激しい。
今日は夏を予感する暑さだ。

頭をからっぽにしたくて、電車に飛び乗った。
東京を出て、森林に行ってきた。

息をおもいっきり吐く。もうだめだっていうくらいに。
すうーっと息を吸う。ゆっくりと、深く、深く。
身体じゅうが透明な気体で満たされている。
細胞のひとつひとつが綺麗になってゆく感じがして、おそうじみたいだな、と思いながら、繰り返し、深く深く呼吸をする。

この感覚は、東京の街中にはない。
ここでは、息を吸いたいと思う。

スポットライト、シュガーホワイト、コマリコマリ。
美しい紫陽花たちが迎えてくれている。
夢中で見つめる。
「咲き乱れる」と表した人と、お友達になりたいな、なんて思いながら。

何を成し遂げたいだとか、何のために生きるとか、今何をやるべきだとか。
そういうことを考えながら生きたい人にとって、それらは大切なことだけれど、今は離れて、深く呼吸がしたかったのだ。頭をからっぽにして。
こういう「余白の時間」はきっと誰にだって必要だ。でも、私にはビルの中にいては深く呼吸ができない。細胞のひとつひとつに行き渡らせようという気がしない。おそうじの反対みたいで。
日々の仕事にずっと追われっぱなしでは、たとえ形は休息をとっていても、頭は到底からっぽにならない。からっぽって、むずかしい。今だって、あれこれ考えてしまうもの。
いつからだろう。目の前の花の美しさだけに心を手向け、美しさを感じることだけに脳ミソを使うことができなくなったのは。

まだ若草色のモミジの種。
もう飛ぶ準備はばっちり。

「木漏れ日」と口ずさむと、幸せな気持ちになる。
光と陰のコントラストが好きで、自然の中に繰り出すとき、いつも探してしまう。

小川の涼しげな音はなんて心地よいんだろう。毎朝、毎晩、聴きたい奏でだ。

「どこの国でも詩は、その国のことばの花々です」
と綴ったのは茨木のり子さんだが、花々もまた、その場所に咲く詩そのものね。

もうすっかり若草色に着替えた桜の木の横を通りかかって、花が咲いている姿を思い浮かべていると、思い浮かぶ歌がある。

もろともに あはれと思へ 山桜 花より外(ほか)に 知る人もなし
久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ
花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり

この頃の「桜」とは、山桜であった。山桜は花と葉が同時に咲いたり、葉のほうが先に芽を出すものらしい。
繰り出した先で山桜に出会ったことはあるけれど、そうでなくて、四季のうつろいを山桜とともに過ごしてみたいなと思う。
歌の詠み手とは逢えないけれど、山桜と過ごす四季ならば彼等の震えた心に逢いにいくことができるかもしれない。

スポットライトが当たっていた。
「生きているんだよ」と言われた気がして、ちいさな芽の姫と見つめ合った。
散策をしてここに戻ってくる頃には、ちがういのちに光が当たっていることだろう。

花嫁のドレスのような装い。

そういえば、昔母が言っていたっけ。命を繋ぐお花と、ドレスの飾り花と。

星のような飾り花。
真っ白な星の中心に、ちょんとついた上品な丸いボタン。
緑がかった青が可憐だこと。

大きくならなかったひとひらを見つけた。
大きくならなかったから、綺麗な青の頬紅をついている。

ぽっと頬を赤らめている花の先に、きらりと光る細い糸。
仰げば尊し。きみはどこを仰いでいるの?

命をつなぐ。「繋ぐ」という漢字がね、好きなの。
柄でもなく、私もいつか命を繋いでみたいな、なんて思っちゃった。
恋人と一緒にここに来たいな。手を繋いで。

カッと光が差してピンと張り詰め、弾き出されるように飛び出した感受性ではなくて、木漏れ日が照らし出した陽だまりから自然と暖め出でる、優しく柔らかな感受性が織る言葉は、言葉にならなかった感慨と共に身体じゅうをめぐり、どれも養分となって心を癒やす。

「大いなる」につづく言葉に「自然」ほどふさわしいものはない。

眼鏡をはずして、ぼんやりと世界を見ている気がした。

「きみってさ、とてつもなくたくさんの色鉛筆を持っていると思うんだよね。平均が百二十色だとしたら、ぼくは二百四十色くらいで、でもきみは五百色くらいの色鉛筆を持っている気がする。ぼく、一度、きみの目で世界を見てみたい」

大好きな友達が言ってくれたのを、ふと思い出した。そうか、何色かはわからないけれど、たしかに色は多い方なのだと思う。彼の言葉が嬉しくて、こころの小人さんがころころと照れ笑いしたっけ。そんなふうに思ってもらえるなら、私も案外捨てたもんじゃないのかも、とすら思えた。

でも、色鉛筆の箱を空にして出かけることだって必要なんだ。やっぱり「大いなる自然」の中でないと、眼鏡ははずせない。今度からは定期的にこういう時間を作っていこう。

現代という流れでは、時を掴むことが、どんどん難しくなってきている。
携帯はひっきりなしに鳴るし、「休息」という予定を入れないとカレンダーはたちまち埋め尽くされてしまう。驚くべきことに「予定」を入れないと、時間は「消耗されて」「消費されて」、つまり受身形の動詞となって、すぐに過ぎていってしまう。
そんな生活を「よし」とする風潮もあるけれど、やっぱり私は

きみとここを訪れたい。

写真:iPhone カメラ Manual 加工なし

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