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河原者

ロームシアター主催の舞台芸術プロデュース講座第4回 ケース3 民間劇場に参加しました。
講師はTHEATRE E9 KYOTO 芸術監督あごうさとしさんとNPO法人DANCE BOX プログラム・ディレクターの横堀ふみさんです。
お二方とももともと存じ上げてはおりましたが、あらためてこのような形で民間劇場経営・運営についてのお話が聞けるのは貴重な機会でした。

放っておくとどんどん思索の方面に行ってしまういがらっし、現実的な経営や運営について刺激をいただこうと思って、このような会に参加しているのです。
講演の内容も、地域活性と劇場の関係についてなど、私が学ぶべきこと満載です。

が、私のアンテナはどうしても思索や概念や解釈という切り口で受け取ってしまう。
昨日の一番の収穫は、2022年の今日においても、劇場やパフォーミングアートは行き所のない/所属のない人と親和性が高いということ。

E9とdbの所在地はともに外国人が多い地域で、被差別地域でもあるそうです。E9は文字通り川沿いにあり、中世や近世では「河原者」といったら河原に住むパフォーマーを含む賤民を指す言葉でしたよね。
横堀さんは最近行われたdbにゆかりのあるかたのお葬式に言及され、お葬式と劇場の境界の曖昧さについても取り上げられていました。
お葬式、お弔いと言えば、(全体像はあきらかでなかったと記憶していますが)中世では時衆系の民間宗教者、鉦叩きだとか、ああ、名前をわすれてしまった、湯灌する人だとかがいて、それらの人々の活動は流動的でありパフォーミングアート活動と少なからず重なっていました。
当時のパフォーマーは能楽師含めて売春や人商とは無縁ではなかったようですし、能の演目の中にも人買いや身売りが題材として散見します。
いがらっしはこのような社会の「外」(と同時に神聖)にあるとされた場所で生きた人にことのほか興味・共感を覚えていました。
研究テーマは貨幣概念。本来は客観的に測ることができないはずの価値、例えば、人の価値ですとか、孝行の価値ですとかが、貨幣の普及とともにどのように衡量されるようになったのかを知りたいと思っていました。

中世の文学研究をしていた私がダンスに転向した、というと一見分断があるように見えますが、発露の方法が変わっただけで、私の中のテーマは変わっていないのだと思います。
むしろ、客観的に分析するだけでは足りなくなって、自分でやっちゃってる(!)という感じでしょうか。自分が丸裸で生きていることに気づいた、自分の身体ちゃん性に気づいたということかもしれません。

2022年はいがらっしにとって、方向がどんどん明らかになった年だったように思います。選んだのではなく単に明らかになった。選択肢が、もとい、選択肢に見えていたようなものは選択肢ですらなかった。自分が携わっている直接は関連しなさそうないくつかのプロジェクトがすっと集約する不思議な感覚。
この先どうなるかはわかりませんが、方向だけは変わらないという確信があります。

追記:
賤民について。もともと貧弱な研究でしたし、すでに大幅に忘却のブラックホールに吸い込まれているので、詳しく知りたい方はご自身でお調べください。
私がイメージしている中世の賤民は、資産を持たずフローだけで生活する人です。畑を捨てて逃げた、などが一例です。寺社に属して労働力を提供する人々もいましたが、かれらもやはり耕すべき場所などは持っていませんでした。その代わり道具などを作る、サービスを提供するという技術を身に着けました。この定義だと現代の私たちはほぼみな賤民笑。
中世も早い時期は、食い詰めると有徳人のところにいって食わせてもらう、その代わりに労働力を提供する、のようなことがありました。人を食わせるほど資産を持っている(←心も広い)人は「有徳」人。イメージとしては存在そのものを引き取ってもらい、存在で支払う感じですかね。そのうち、存在そのものを引き取ってもらう時に金銭を引き換えに受け取るようになり、よって身柄は金銭を支払ったものの所有物になる。さらに時代が進むと、年季奉公として幾らで〇年間働くという契約になっていったようです。さらに時代が進むと、一日いくらとか、一時間いくら、のような契約に!
さあ、ここで問題です。あなたの定義で(あるとするなら)奴隷はどれ?奴隷でないものはどれ?奴隷って何?自由って何?

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