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この身体 空の微塵に散らばれ(宮沢賢治「春と修羅」より)

帰り道、車で落としていただく。深く深くお辞儀をし、車のテールランプを見送り、スーパーで時間切れ間近の半額弁当を買って、泣きながら家まで歩いた。充実などという言葉ではおさまりがつかないような一日が終わる。

何も要らないです。
踏切待ちながら、垂れ流しの涙を拭く必要すら感じない。

そうだ。本来無一物。
何も要らないどころか、もともと持っていないんだった。


高槻ジャズフェスティバル。メインイベントとしてではないけれど、イベントの一部でコンテンポラリーアフリカンのグループとして踊らせていただいた。

リハーサルはたったの一度。パーカッションの生演奏で踊る。即興のソロも含まれる。
どうにも怖いし、数日の自主練習で満足がいくほど踊れるようになるはずもない。でも、お客様の前に立たなければならない。立たせていただける。その場を私のエネルギーで圧倒しなければ申し訳が立たない。

この数日でしたのは、Kokouのビデオを見ることと実際に踊ってみること。(※1)ダンスの上達など目指しようもないので、ひたすら、自分の中にダンスが湧き起こるようにKokouからエネルギーを分けてもらう。

高槻が済んだら、大急ぎで三宮に移動。車での移動中にパフォーマンスで何をするのか相談が始まる。決まったら、私が出るダンスのビデオを見せてくれて、口頭で説明してくれる。

やるしかない。

必要な小道具を現地の100円ショップで調達。
足踏み程度に、振り移し。

やるしかない。

ひとつ前のグループの演奏を聴きながら、それにあわせて足踏み程度に即興を計画。

やるしかない。

パフォーマンスが始まっても、私は一つの演目に出るだけなので、ひたすら演奏の横にいる「だけ」。でも、「だけ」にならないように、できる限りの発電を試みる。邪魔にならないぐらいのほぼ動かない状態で、体の奥で湧き起こるダンスが染み出しますように。

踊らせていただく演目でもそうだった。うまく、ではなく、湧き起るものが染み出すことへの願いだけでその場に立つ。
その時間のことを説明しようにも、なんだか言葉につまってしまう。代わりに降りてきたのは、「この身体 空の微塵に散らばれ」という宮沢賢治の「春と修羅」の一節。
ビデオで見ようにも、幸か不幸か、踊りながら大幅に移動しビデオカメラのフレームの中に納まっていなかったので、自分が何をしていたのか確認のしようもない。
つまり、私のなかに残ったものは「この身体 空の微塵に散らばれ」という一節と、なんというか摩擦としかいいようのない皮膚感覚。でも皮膚表面の感覚ではなく、私の皮膚が私の体と接する内側の感覚。

帰りの車では、メンバーの一人が海外遠征ストリートミュージシャン時代の武勇伝を語ってくださった。

皆さんは、いがらっしに投げ銭の分け前までくださった。
時給で支払われる給与と、今日いただいたお金は全く別のものだと感じた。前者は限定された時間内での行為に対して支払われるもので「いがらっし」という存在からは切り離されている。それに対して後者は存在に対して支払われたもののように感じる。厳密にいうと、今日のはおまけで分けていただけただけなのだとは理解しているが、それでも、いがらっしの目指しているものへの応援だと感じる。こんなに有難いことはない。

いただいた投げ銭で購入した半額弁当のおいしいこと。天の甘露の味がする。
ふと、人生での濃い体験と安定を引き換えにする、というのは、もしかしたらメフィストフェレスと魂を取引するのとパラレルなんじゃないかと思いつく。

感動しすぎて、今日のアカウントはおもしろおかしく書く余裕がありませんでした。

※1 Kokouについては「LoveLove絶賛発狂」をご参照ください。https://note.com/igarassi/n/nf17170a20bcd

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