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アート・反アート・死・嗤うメフィストフェレス

やあ破産者諸君!元気にアートやっているのかな?
さっそくだがお伝えしよう。アートはすでに死んでいる!

いま君たちが腐心しているもの、それは趣味か商売にナルシシズムをぶちまけた別の何かだ。断じてアートではない。
どうも君たちは忘れっぽいらしいし、耳が遠いふりをしているので、何度でも言おう。
アートは死んでいるし、君たちのなめまわしているそれはアートではない。


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死の泉

芸術の死はマルセル・デュシャンの偉大なる小便器「泉」(1917)によってもたらされた。彼は絵画や彫刻といった視覚的な「網膜芸術」から脱する「概念の芸術」を創造した。

デュシャンの手法「レディメイド」はいたってシンプルだ。大量生産された既製品を美術品として展示するだけ。
作品の選定は視覚的無関心に基づき、造形と美しさは一切考慮されない。有用性が消失するように設置し、そのオブジェに対する新しい解釈を鑑賞者が創造する。「概念」が生みだされるわけだ。

オブジェはキュレーションによって作品となる。万物はアートたりえる。製作者と鑑賞者の恣意と、展示場所があれば、何でもアートだ。時にはどれかが欠けてもかまわない。そういう風に対象を無価値にし、無関心に徹底することで、展示するという行為を特別にした。

ちなみにデュシャン本人もレディメイドの危険性に気づいており、年間数体しか作らないという制限を設けていた。しかし重要なのは数ではなく質だ。デュシャンが言った通り概念が問題なのだ。

万物のアート化が、アートの輪郭を取りはらってしまった。全てのものがアートであるならば、アートはもはや存在しない。人間の意図と無関係な路傍の石も、吐しゃ物も、偶然とれた写真も、街頭の風景も、すべてがアートだ。

下らないアーティストがそんな作品の前でえらそうな御託をのべている、そんな光景は何度でも遭遇しているだろう?
薄笑いとともに「わたしにはむずかしくてわからないな」と何度言った?
わからないのは当然だ。そんなものに価値はない。例えるならハイパーインフレしたジンバブエドルのようなものだ。

極限まで肥大したとき、アートは拡散して死んだ。
「概念の芸術」革命は、当初芸術の自由、領域を際限なく拡大させたが、その結果は芸術の消失をもたらしたのである。

百年以上たってもなお、死んでいることに気づかなかったアーティスト諸君の感性がちょっぴり心配ではあるけれど、そういうことだ。すでに葬式も済んでいる。


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マルキ・ド・サド、表現の極北

少しだけ時間をさかのぼり、まだ芸術が生きていたときの話をしよう。1789年フランス革命の勃発直前、マルキ・ド・サドはバスティーユ牢獄にいた。自身の変態性欲の檻の中にも。サドは文学における表現の極北だ。極端な話には極端な人物がふさわしい。

いまでもサドを文学史上の革命者と賛美するものは多い。ひょっとしてアーティストの中にもそんな子がいるのかな?悪い子だ。窒息するほどのキャンディをあげよう。

その文学は、彼の生きていた同時期に現実によって乗りこえられてしまっている。

サドは「ソドム百二十日あるいは淫蕩学校」、「ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え」を代表とする小説の中でありとあらゆる淫蕩、堕落、邪悪、凌辱、暴力の限りを尽くした。しかし彼の小説は禁書とされ、同時代のわずかな人にしか読まれることはなかった。ギョーム・アポリネールが1909年に刊行した「美徳の不幸」によってサドは再評価され、世界的な悪名を轟かせることになる。

1790年、革命の成立後、反王政の有名人だったサドは釈放されたが、自身の財産が危険にさらされると反共和制派に転じた。その後1801年にナポレオンによって命令が下り、匿名で出版されていた著書を理由に投獄され一生を精神病院で過ごした。要は王政と共和制とナポレオンに運命を左右されていたわけだ。犯罪者ではあったが時代の被害者とも言える。 ※注

※注 バスティーユ牢獄からサドがメガホンで叫び襲撃を扇動したというまことしやかなエピソードはあるが、彼の著作は1909年に再評価されるまで世間にほとんど流通しておらず、ましてや作品がフランス革命の進行に影響を及ぼしたという証拠はない。投獄されていなければ、小説を書くこともなかったという説が有力だ。

サドの悲劇は、彼の創作はお得意の陵虐という意味ですら現実に追いこされてしまっていた、ということだ。
同時期にジャコバン派恐怖政治によって数万人がギロチンで処刑され、リヨンの大虐殺ではジョゼフ・フーシェが大砲の前に反革命分子を並べて処刑し「リヨンの霰弾乱殺者」という仇名がつけられている。その他の例は、いまさら列挙するまでもないだろう。

これらの事実は、明らかにサドの小説よりも激烈で陰惨な死と苦痛に満ちたものである。
その後の歴史を永遠に変えてしまった革命の現実と、天才とはいえ一個人のイマジネーションを比較するのはアンフェアだが、現実の極北は表現の極北と次元が違うという一例をあげて、自称表現者にも慎ましさを思い出していただきたかっただけだ。

しかし、アンフェアはアンフェアだ。
納得いかないなら一緒に思考実験をしよう。
なに、ちょっとしたゲームだ。別に死にはしない。


片やギロチン、霰弾、尽くことのない悲劇。              片やペン、牢獄、未来の燦然たる悪名。                サドにこの二択を提示したら、どちらを選ぶと思う?

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…ペンを選ぶだって?
現実の暴虐を選ばず、ペンを選んだサドとはいったい何を意味するのか?
表現とは志向する価値を形而下に現出させるためにある。
表現の極北たるサドが暴虐を選ばずしてサドたりえない。
彼の本当のペンは肉体の苦痛と悦楽だからだ。

ペンを選んだのは君自身の立場を擁護するためだろう?
その類の嘘は、おためごかしは、芸術家としての自死ではないのか?



画像4悪徳の栄え事件

昭和44年、サドの「悪徳の栄え」を翻訳した澁澤龍彦は「わいせつ物頒布等の罪」で有罪となった。世にいうサド裁判「悪徳の栄え事件」だ。澁澤ははじめから裁判の勝敗を気にせず、「なるべくおもしろくやる」のが目的だったそうだ。結果たった7万円の罰金を科され、この程度なら何回でもやるとうそぶいた。文学者の鑑だ。

友人だった三島由紀夫は、「今度の事件の結果、もし貴下が前科者におなりになれば、小生は前科者の友人を持つわけで、これ以上の光栄はありません」と伝えた。
表現者として、表現内容が法律や憲法や善悪によって前提を作られるべきとは微塵も考えていない。この二人はサドの後裔としてふさわしい。さっきサドをディスったばかりだが。

この裁判はいくつか論点があるが、
「憲法二一条の表現の自由は、絶対無制限なものではなく、公共の福祉の制限の下に立つものである」というのがポイントだ。

サドの例で明らかなように、芸術とは常に危険領域から新しい表現を獲得してきた。衛生無害かつ誰も傷つけない冒険領域の欠如は、そのまま芸術から自由を奪ってしまう。

憲法に定められた表現の自由と公共の福祉における相克は、あくまで憲法の範囲内でのことだ。

本来、芸術の自由とは日本国憲法成立よりはるか以前から人類史上存在していた形而上学的なものだ。いまアーティスト諸君が追い求めている表現の自由は、憲法の範囲内、つまり秩序統治下の範囲内で許された自由であるがゆえに、公共の福祉と必然的に対立する類のものである。

つまりルール内の偽の自由である。衛生無害にならざるを得ない宿命だ。
澁澤や三島が、ましてやサドが前提としていた「有罪であることなど歯牙にもかけない」形而上学的な芸術における自由と絶対的に質が違う。

アーティスト諸君が涙ながらに訴える表現の自由は、芸術の本質に逆らう「自由モドキ」なのである。理不尽、無根拠、不明の領域、醜、悪、有害性を排除したものを前提に自由はない。

つまり、君たちアーティストは、ペンを選ぶことを強制されて、自由の思想を矯正されたサドですらない。ゆえにそのアートは生まれながらに死んでいる。

苦しまぎれにいま吐いた「そんなものは自由じゃない」という遺言は、死ぬ前にいうべきだった。違うかな?

諸君の言うその自由は「憲法の範囲内での表現の自由」であり、私の言う自由は「形而上学的な芸術本来の自由」だ。議論についてこれていないならば、もう一度くりかえそうか。

芸術なき世界で芸術論なき自由を希求する自称芸術家の遺言は、いつも同じであり創造性の欠片もない。

ああ、これでは「みんながたのしめる じゆうなあーと」を逸脱してしまうか。失礼した。やはり君たちには表現の自由で十分だったな。忘れてくれたまえ。


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増殖する芸術の死体


アートが輪郭を失い、芸術的価値は地上から四散した。アートが形だけでもが存在し続けるためには、他の価値に依拠することが必要になった。

カネ、権威、人気、倫理、共感、社会貢献、環境問題、差別への反対。そしてグローバル資本主義。それらはアートがなくても存在できるが、アートはそれがなければ見かけを保てない。

社会貢献や町おこしに躍起になって参加したがるのは、無価値のアートが役立たずであり、他の諸価値から無言の圧力をかけられているからだ。そして大多数のアーティストは食い扶持と展示場所を求めている。かくして死んだはずのアートは見かけでは隆盛しているようにふるまっている。

アートは新規性を求めるとされている。しかしこの枠組みを外れることのないアートは新商品、あるいは新プロジェクトとしての目新しさを持つだけだ。目新しさを業界全体で追い求めるのが創造的であるという転倒に、商売人であるアーティストが疑問を持つことはない。


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官製芸術展による表現の自由の死


社会貢献を要請されたアートは官製芸術展によって居場所を安堵されたかのように見える。
社会貢献とは実に耳ざわりがいい言葉だ。ジェントリフィケーションという都市再開発で貧困層の追い出しをしておいて、アートによって町おこしをし、排除アートによってホームレスの包摂を拒否する弱者排除社会の主体となっているのは、他ならぬ官と国民だ。アーティストも例外ではない。警察国家も監視社会も格差の固定も、主体は全国民にある。

アートは社会に一体化している。本物の排除を行う社会を、官製芸術展で文化的に下支えしておきながら、自分たちの表現の自由だけが守られる道理をどこに求めているのか。

公共の福祉に反するとして表現の内容を制限される、あるいは公金の引き上げを切り札に圧力をかけられるに決まっているのだ。

弱者排除社会に公認された官製芸術展に、表現の自由など最初から存在していない。
アートの自由はここでも死んでいる。カネと知名度を求め、自らそれに引き寄せられていった。被害者面と善玉のポーズはインスタレーションとしても粗悪だ。作り直したまえ。


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アートを必要としているのは被害者ではない


ReFreedom_AichiとGender Free Statementの声明を読ませてもらった。ステートメントの趣旨は「表現の自由」と「ジェンダー差別への反対」の二枚看板だ。
拍手喝采!実にご立派だ。反論の余地もない。君たちはいつも正しい事しか言わない。
だからこそ、君たちが「決して言わないことや実行しないこと」が問題となる。

以下が君たちのはらわた、集めたカネの使い道だ。

アーティスト・ラン・スペース - サナトリウム設備経費:¥ 331,000
作家滞在・交通費:¥ 2,400,000
ゲスト滞在・交通費:¥ 750,000
運営・制作スタッフ人件費:¥ 1,500,000
制作費 :¥ 3,025,000
備品消耗品費:¥ 300,000
アーカイブ費(web制作・撮影・編集・翻訳)¥ 2,750,000
計:¥ 11,056,000
※加えて クラウドファンディング手数料14%

これはチャリティーですらない。ジェンダー平等をうたいながら、高額の手数料がいるクラウドファンディングでカネを集め、ほとんどが製作、設備、アーカイブ費用に消えてしまう。何をするにもマンパワーは必須であるから人件費には関知しない。

差別被害者の互助団体にギブ・ダイレクトリーとして寄付するほうがよほど役に立つ。キャッチコピーとして差別反対を掲げているだけで、資金運用の実態が伴わないならば、善意の有無は関係なくその運動は差別撤廃に資するものではない。

何度でも言おう。君たちのナルシスティックな善意など、存在しようがしまいが、関係ない。
実態と構造に言及しているのだ。癒しを与える意味などという自己満足の感情論にすりかえるのはやめていただこう。
その安い手品もアートなのか?
見たまえ、拍手がやんでしまった!

質問するが、現在進行形で差別や加害行為に苦しんでいる当人が、アートが必要だから作ってくれと頼みに来るだろうか。直接救援を望むのが普通だろう。なぜそれをやらない?

誰もが差別反対を口にしている、メッセージが飽和しているなかでも差別は横行しているのだ。まして、直接的な支援にもならないオブジェや絵画やランスペースが何の役にたつのか。製作と展示とアーカイブ費用を丸ごと寄付すればいい。

そもそも、ソーシャリー・エンゲージド・アートは政治を動かす実行力をともなう社会運動と連動して初めて意味が生ずる。本来、人助けに絵画やオブジェなど不要である。
資金集めを目的とした人寄せパンダ役を「あえて引き受けてみせる」のが真骨頂である。

ナルシスティックなキラキラメッセージを伝えることを目的化して被害者には何の支援をもたらさない、倫理を広告として消費しているアート界はどんな美的感覚を持っているのか。存在するだけの善意には存在価値がない。  倫理に依拠しているなら、アートは、作品は必要ない。

被害者の救援より、自分たちが差別に反対しているというメッセージを広めることに活動実態をおくのなら、それは単なる善意の見せびらかしだ。実に美しいね?
アートを必要としているのは被害者ではない。アーティスト本人だけだ。

倫理に偽装しそこねたアートの死骸でも、高額で売れる。
だからアートは死んでいるし、望んで死につづける。





―――表現の自由を守る市民運動の起点と、そしてアーティストのため、アートの展示場をつくるためお金が必要だ、という正当な理由のみを掲げれば、こんなことを言う必要はなかった。残念だ。





今さらアートの真似事をやれているのは、芸術論の不在と無理解による。
それに心をうごかされてカネと感動を分泌する鑑賞者も、いないのと同じだ。

私は君たちの趣味も、食い扶持も、善意も否定するつもりはない。どうでもよいことだ。
しかし、ありもしないアートを名乗るのは、もう無効だと認めたほうがよい
でないと君は嘔吐する。それすら新しいアートになってしまう現実に。

ついでに言ってしまえば、アートに意味はないし、反アートにも意味はない。この芸術史とアーティストの苦労を嘲弄する駄文にもいかなる建設的な意味などない。

これは芸術家にとって打ち倒すべきニヒリズムの像だ。
アートの力とやらで、どうにかできるだろう?
その日を楽しみにしている。未来永劫待つつもりはない。

誠心より忠告する。金儲けや自慰にかまけていないで早くしたほうがいい。
きのう今日生まれて、あす明後日に寿命で息絶える諸君にも、そんな時間は残されていない。












参考文献 ※ここで述べた内容の文責はすべて筆者にある

西洋美術の歴史8 井口 壽乃、田中 正之、村上 博哉 中央公論新社

なごやトリエンナーレ 8.7芸文センター清掃行動声明文
https://www.nagoyatriennale.info/8-7-seisou

アーティスト症候群 アートと職人、クリエイターと芸能人 大野左紀子 河出文庫

アート・ヒステリー なんでもかんでもアートな国・ニッポン 大野左紀子 河出書房新社

芸術弾圧誌メインストリーム03 メインストリーム編集部
https://sites.google.com/site/organmainstream/works

1136夜『悪徳の栄え』マルキ・ド・サド|松岡正剛の千夜千冊
https://1000ya.isis.ne.jp/1136.html

Wikipedia 澁澤龍彦、悪徳の栄え事件、三島由紀夫

ファウスト 新潮文庫

カラマーゾフの兄弟(下)「兄イワン」 新潮文庫

ReFreedom_Aichi

https://refreedomaichi.wixsite.com/genderfree



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