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表現の不自由展:「二項対立」しか 選べないひとたち


表現の不自由展によって二項対立と分断が顕在化した、とみな嘆いている。
私はこの反応の一様性に違和感がある。なぜ、美的センスに優れているはずのアーティストや芸術愛好家、および反対者は同じようなことしか言わないのか?

アートや表現活動が本当に創造的・触発的・挑発的・多様であるのならば、なぜ一様に「暴力によって表現の自由が侵されたのが悲しい」や「国民の税金を使って反日作品の展示は許されない」といったお決まりの二項対立しか観測されないのか。

例えば、「私は作品を自ら警備する、テロリストは私が排除する」などという荒唐無稽で奇矯な立場を「あえてパフォーマンスする」アーティストが現れてもいいはずだ。

倫理至上主義やパトロンへの従属性、およびファン離れという損得勘定がそのような危険性や奇矯さを許さないから「常識的で穏当な」反応しか起こらない。官製芸術展と芸術愛好者およびその反対者も、すでに前提として思考と行動を制限されている。

皆一様に分断され、自ら二項対立の枠組みにはまっていくような者しか存在しないのに、どうやって「表現の自由」を議論できようか。現象の一様性が、理念としての多様性の不在を証明している。

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