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志村貴子「おとなになっても」

彼とは小学校の同級生だった。小学五年生のときに初めて同じクラスになったから、彼との思い出は俺が不登校になった時期とちょうど重なっている。同じレク委員会に入って運動会で踊る曲を決めた。教室のコンセントにシャーペンの芯を落として放電させた。休み時間にベランダでスピッツの話をした。俺が学校に行かなくなったときも、俺が学校に行くようになったときも、彼は同じ教室にいた。
小学校を卒業してからもしばらくは年賀状や手紙でのやりとりがあったけれど、次第に疎遠になっていった。中学校で出会った新しい友人たちと親しくなるにつれ、俺の方からだんだんと返事を返さなくなったのだと思う。モデム回線のインターネット。どうしてその存在を知ったのか覚えていないけれど、彼が作ったホームページを見つけたことがある。そこには誰に見せるためでもない日記が綴られていて、ある日の日記には「夢で小学校時代の親友に会った」と書かれていた。その「親友」とはおそらく俺のことだろうと思った。だんだんと返事を返さなくなったのと、その日記を見たのと、どっちが先だったか忘れてしまった。
高校時代はまったく会うことがなかったけれど、mixiが流行り出した頃にふたたびつながりが戻ってきた。そして、久しぶりに会うことになったのが20歳を過ぎた頃だったと思う。地元の駅で待ち合わせて、ガストでお茶でも飲もうということになった。俺は大学生活による鬱がようやく抜けたか抜けてないかという時期で、決して明るく楽しく自分のことを話す気にはなれなかったけれど、お互いがどんなふうに変わっているのか確かめてみたかったのだと思う。
誰かと久しぶりに会うときはいつだってそうだけれど、自分が変わったのか変わってないのか、このときもよくわからなかった。「変わったね」と言われたことはこれまで一度もなかったような気がする。だけど、「変わらないね」と言われるたび、俺は自分がまるで成長していないように感じて辛かった。相手の嬉しそうな表情と自分のふがいない気持ちがズレていくのが怖くて、素直に喋れなくなる。このときもそうだったかもしれない。
俺は彼に伝えるべき言葉を何も用意していなかった。用意していたのは彼の方だった。突然こんなこと言われても困ると思うんだけど、と前置きして、「私の初恋はあなたなんですよ」と彼は言った。そのとき彼がどんな表情をしていたのかはまったく覚えていない。たぶん俺は手元のグラスばっかり見ていたのだろうと思う。「うん、なんとなく、そうかもなって思ってたよ」と俺は答えたはずだ。そのときのやりとりが、彼の人生にとって、俺の人生にとって、どれだけ大きいことなのかはわからない。ただ、今でもときどき思い出して、なにかキラキラした光をそこに感じる。そう伝えてくれた彼のことを、そして受け止める準備ができていた自分のことを誇りに思っている。

同じ日だったと思うけれど、彼にひとつの漫画をオススメした。志村貴子「放浪息子」だ。そのときはまだコミックビームで連載されていて、いつまで続くのかわからない物語だったと思う。俺は大学の授業でこの漫画と出会った。だけどそのおもしろさを説明するのは難しくて、説明した途端にそのおもしろさが消えてしまうような気がして、誰かと共有しようと思ったことはそれまで一度もなかった。俺がこの漫画を読んで感じるものが彼と同じなのかわからなくて少し不安だったけれど、しばらくして彼からメールが届いた。「自分のことかと思ったよ」。そっか、よかった。彼にとって「自分のこと」なら、俺にとっても「自分のこと」で、同じ教室にいた二人にとっては、「私たちのこと」なのだと思う。だから今でも、この漫画は俺にとって特別なものだ。
そして、その物語の続きが今も連載されている。登場人物はまったく違うし、舞台となる街も設定も何ひとつつながってはいないかもしれない。それでも、あの物語の続きだと俺にははっきりとわかる。おとなになっても。楽しみにしている。

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