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神奈川近代文学館「小津安二郎展」

2023年4月15日。
雨。目が覚めたときから降っていて、眠るときまで降り続けてくれるならいっそあきらめがつくというものだ。完璧な雨の日。濡れても大丈夫な靴を履いて、ビニール傘を持って出かける。桜はとっくに散ったけれど街は新緑の季節。深まっていく緑色のすきまを埋めるように白やピンクの花々が咲いている。俺はそのほとんどの名前もわからないまま36歳になった。

小津安二郎展、というのは2020年に鎌倉文学館で催されたものを観たことがある。そのときのことで思い出せるのは、撮影に使われた赤いやかんがあったこと。「蟹」と呼ばれる背の低い三脚があったこと。それ以外には映画の台本や直筆のメモ帳なんかが中心に展示されていたと思う。今回の展示もほとんど重複しているだろうと思ってあまり期待していなかったが、予想を裏切られてものすごく良かった。

今回の展示の見どころはいくつかあるけれど、ひとつはヨーロッパでの評価が反映されていることだ。海外向けに作られたアートワークはデザインがことごとくかっこよくて、ポスターやポストカードが販売されていたらすべて買っていたことだろうと思う。しかし、『東京物語』が代表作として評価されている意味はいまだによくわかっていない。個人的に思い入れが強いのは名前の似ている『東京暮色』の方で、「Tokyo Twilight」という洋題がつけられた黄色いアートワークも素晴らしい。煙草を指に挟んだまま物憂げな有馬稲子。明子という役名の彼女は、母親とのつながりを失って家族の愛というものを信じられずにいる。自分は何者なのか、やけっぱちになりながらも追いかけずにいられない焦燥みたいなものが感じられて、とても好きな映画だ。

もうひとつの見どころは、戦争との関わりについて。この点については日を追うごとにその重要性が検証されているように感じている。
戦前の、松竹蒲田撮影所時代はその作品のテーマも含めてどこか牧歌的な印象がある。その頃は小津自身も「ジェームス・槙」という名前を使っていたり、遊び心を感じさせる逸話が印象的だった。しかし次第に戦争の影が、一映画監督すらも召集せざるを得ない総力戦の影が濃くなっていく。
小津に召集令状が届いたのは33歳のとき。1937年から中国戦線に従軍して2年後に帰国したものの、1942年には国策映画を作るためにシンガポールへ派遣された。敗戦を受けて現地で抑留され、日本に帰ってきたときにはもう42歳になっていたそうだ。このときの年齢が自分とも重なっているから余計に、虚しさが胸に迫ってくる。
今回は当時の新聞記事が展示されていて、一番ショックを受けたのはそれかもしれない。「勇ましや小津軍曹」「監督伍長も健在」「万歳!小津ちゃん還る」「さあ帰還第一回作だ!」という見出しが並んでいた。ただ映画を観て撮りたいだけの人間が戦争に駆り出されて、母国の紙面では英雄として扱われている。戦争が終わったからといってその代償を国家が支払ってくれるわけでもない。誰に何を奪われたのかも釈然としないまま、映画を撮ることだけに焦がれている個人の健気さを思うと涙が出そうになった。

そして最後の見どころは母親との関係だろう。母あさゑから小津への手紙がいくつか展示されていたのが印象的だった。9歳のとき、小津は母と兄弟と一緒に三重の松坂へ転居した。そのとき東京の深川に残った父親に対しては他人のような感覚があったのかもしれない。小津は生涯結婚することもなかったし、おそらく子どももいないはずだが、戦後から晩年まで母親と二人暮らしをしていたというその親密さが気になる。そして、その土地が神奈川の鎌倉であったということが俺にとっては大切な事実なのだとあらためて思った。

2020年に鎌倉文学館で観たものとはもちろん内容も違うのだがそれ以上に、この3年のあいだで自分自身が変わったこと、歴史に対して想像力が働くようになったことを感じた。きっと、3年前とまったく同じものを観せられても新しい発見があったはずだ。展示室を出て時計を見ると思ったよりもずっと時間が経っていた。美術館でもそうだけど、こういった展示では実物よりも解説文ばかりを目で追ってしまうことになるので会場を出る頃には本を一冊読み終えたような疲労感がある。長い歴史を駆けめぐった気分だったから、もう雨も止んでるかと思ったけどちゃんと降っていた。

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