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チョロQ

2021年9月21日(火) 晴れ
アルバムが完成した。アルバムって何?完成って何?って感じがするのでもう少し具体的に言うと、自分で作った曲を自分で演奏して、自分で録音したものが10曲まとまった。それを誰でも聴けるようにapple music等のサブスクリプションサービスで配信する準備が整った。

モノを作るときにいつも難しく感じるのが「完成」というやつで、時間の経過とともに自分の感覚も変化していくので、手を加えようと思えばいくらでも手を加え続けることは出来てしまう。それをあえてストップする。あるタイミングで固定させる。そういった、ある意味で作為的な、不自然な強制が「完成」には必要なのかもしれない。たぶんそうだろう。モノを作るときは、作者にしか感じられないような必然性に駆られて手を動かすのであって、それはまるで主体的にやっていることのように見えるけれど、実際はむしろ誰かにやらされているような、自然とそうなっただけのオートマティックな現象に過ぎない。問題は、手を止めるときだ。

俺はチョロQを思い出す。俺たちは創作において、たった一度しかエンジンをかけることが出来ないのではないだろうか。最初にチョロQを後ろに引く、そのときの反動だけで最後まで走りきらなければならない。どこに辿り着くかはわからないが、速度が0になったところで創作は終わる。しかたなくそれを「完成」とするのではないだろうか。それは意志の問題ではなく、限界の問題である。納得がいかずにもう一度チョロQを後ろに引くのなら、それはまた別の創作を0から始めるということだろう。

さっきと言っていることが逆になってしまった。「完成」とは決断によるものなのか、限界によるものなのか。俺が言いたかったのは、『完成って難しいよね。作品にとって最高のタイミングを自分で判断するなんてできる?できないよね。でも、これ以上手を加えるところがないって思うところまで行った。これ以上やっても楽しくない、興奮しないってポイントに気づいた。だから俺はそれを完成ってことにしたよ』ということだ。

もうひとつ手がかりがあるとすれば、「他人」だろう。完成させるために他人を使うのだ。なぜ、多くのミュージシャンがプロデューサーやエンジニアを必要とするのか。それはおそらく音楽的な要請ではない。自分の作品に対してそれほど思い入れのない人間に、完成のジャッジを下してほしいのだ。手を動かすのを止められない作者の肩を叩いて、「私は充分感動しました。これ以上やっても良くなりません」と許しの一言を囁いてほしいのだ。
実際に俺はそういう人間を一人確保していて、それがpotekomuzin/妥協recordのズキスズキという友人である。配信にまつわる事務手続きの一切を彼にお願いしている。俺は、①音楽のデータ、②アートワーク、③テキストデータを彼に送ることでようやく創作から解放される。おそらく配信の手続き自体はそう難しいことではないのだが、自分一人でそこまでやると俺は鬱になる。その境目を俺は感覚的にわかっている。送るべき他人が、ズキスズキが必要なのだ。

「かっこいいね!」と彼は必ず言う。その言葉の信憑性などもはやたいした問題ではない。ズキくんがそう言ってくれたからいいや、と思って俺はようやく手を止めることができるのだ。
2021年9月21日にデータ送信。ズキスズキからの返事をもらった。アルバムが完成した。

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