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横浜上空いらっしゃいませ

横浜駅西口 人ごみ
Where are you going?
ティッシュ配り タワーレコード
Yokohama calling

これは俺が高校時代に書いた「横浜コーリング」という歌の冒頭部分だ。カセットテープに録音して何度も聴いていたからまだ覚えている。いつかバンドを組んで、横浜のライブハウスでこの曲を演奏することを妄想していた。いまのところその機会は訪れていないが。
その頃の俺は、映画をほとんど観たことがなかった。2時間もじっとしているのに耐えられなかったからだ。とにかく自分が何かやりたかった。やれることを探していた。映画を観ても、自分が何かやってみようとは思えなかった。何かやってみようと思わせてくれたのが音楽で、たまたまテレビで見かけたザ・ブルーハーツというバンドだった。
 
1998年。俺はまだ11歳だった。関内駅のすぐそばに”アトム”というCD屋があって、そこでザ・ブルーハーツの「ブルーハーツのテーマ」というシングルを買ってもらった。おもちゃを買ってもらうときは駄々をこねて怒られることも多かったけれど、このときはすんなりと買ってくれて嬉しかった。母親は母親で、尾崎豊の「太陽の破片」というシングルを一緒に買っていたと思う。
家に帰ってさっそくCDを聴いた。本当は一人で聴きたかったけれど、リビングにしかプレーヤーがなかった。母親は夕飯の支度をしていて、窓の外がピンク色に染まっていたのを覚えている。姉と兄は部活の練習で、二人が帰ってくるのを待っていた。2曲目の「チェルノブイリ」という曲がとても好きだった。このイントロのギターを自分でも弾いてみたかった。
 
1999年。俺は12歳だった。中学生にもなると母親と一緒に出かけるのも恥ずかしい。だけど買ってほしいものはいくらでもあったからついていった。市営バスに乗って横浜駅へ。ポルタという地下街に”新星堂”というCD屋があった。そこで今度は、ザ・クラッシュの「ザ・ストーリー・オブ・ザ・クラッシュ」というベスト盤を買ってもらった。初めて手に入れる外国の音楽。英語。イギリス。ロンドン。1977年。いったい俺はどこまで行っちゃうんだろう。
CDを買うときはいつも、これで自分の人生が変わってしまうかもしれないと思っていた。ライナーノーツに書いてあることのほとんどが理解できなかった。でも、ヒロトやマーシーが好きだって言ってるから何度も聴いて、そのうちになんとなく、歌っていることがわかるような気がした。気がついたら俺は、公衆電話から999に電話をかけていた。気がついたら俺は、スペインのアンダルシアという街にいた。
 
2002年12月。俺はまだ15歳だった。高校生のとき、友達のライヴを観に行った。その店はビルの12階にあって、”天国に一番近いライブハウス”と呼ばれていた。お酒の飲み方も知らなかった俺は、オレンジジュースを飲みながら自分の居場所を探しあぐねていた。自分よりも先に、同級生がステージに立っていることが妬ましかった。そのとき、カウンターの奥でスタッフの話し声が聞こえてきた。
「ジョー・ストラマ―が死んだらしいよ」
 
2003年9月。俺はまだ16歳だった。好きな人がいたけれど違うクラスだったし、恥ずかしくて全然話せなかった。夏休みが明けて9月1日は、避難訓練で近くの公園まで歩くことになっていた。殺人的な直射日光。日陰のないグラウンドで、その人とちょっとだけ会えた。ミッシェルガンエレファントが解散するらしいね、という話をした。その人は大きな目を歪ませて、もう生きる希望がないという絶望の表情をして頷いた。俺はひさしぶりに話ができて嬉しかった。
 
2021年。俺はまだ34歳だった。「横浜上空いらっしゃいませ」という歌を作った。現在と過去と、横浜と天国と、瞬間瞬間で行き来するような、そんな歌にしたかった。誰のためでもなく、英語のタイトルは「Yokohama Calling」とした。

ところで、小学生4年生のときに、「2分の1成人式」というイベントがあった。あれはいったいなんだったんだろうか。それぞれが得意なことを披露することになって、俺は同級生何人かと一緒に組んでにバスケットボールのレイアップシュートを披露したはずだ。あのときのレイアップシュートは入っただろうか。

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