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臨済寺(静岡県静岡市清水区) 『どうする家康』に出なかった史跡④

織田家から今川家へ人質交換で移動した若き日の家康。
今川家での扱いは、単なる人質だったというよりは
「人質ではあるものの、将来は我が家を支える人材」
というような感じが見受けられます。

そんな印象を受ける最大の要因は、今川家を支えていた
太原崇孚(たいげんそうふ)もしくは太原雪斎(たいげんせっさい)
という人物から英才教育を受けていたということでしょう。
今回ご紹介するのは、その教育が行われたといわれている臨済寺

太原崇孚は今川義元の教育係を務め、今川家・武田家・北条家の同盟締結(甲相駿三国同盟)を成功させる、人質交換を成功させるなど活躍。

これほどの人物をつけて教育させるということは、義元の期待もかなり
高かったんじゃないか…と思いつつ、太原崇孚はこの時期に駿府に不在で
教育係ではなかったという説もあります。

なんにせよ、太原崇孚は今川家になくてはならなかった人物。
太原崇孚は家康元服の年に亡くなっており、
「生きていれば桶狭間であのようなことにはならなかった」
ともいわれていたとか。
第二話を見ると過去編もそこそこ入りそうな感じですので、サプライズで大物俳優が太原崇孚を演じてくれないかと妄想を膨らませております。

余談:
若き日の家康がいたであろう所は、現在の駿府城跡あたり。
西には臨済寺のある浅間山、東には清水山や谷津山があり、
瀬名姫と遊んでいたのは、はたしてどこだったのでしょう?


臨済寺


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