祈火

心に穴が空いた感覚がずっとある。

ーーー

その部屋は川沿いにあった。
木造2階建てのそれは、長い年月をかけて相応の風格を漂わせることに成功しているようだ。
階段を上がればギシギシと錆びついた接合部は軋み、蛍光灯の端にある蜘蛛の巣は主不在のまま所在なく張り付いていた。
掠れて読みにくい202と書かれたドアの前に立つ。
私はここでいつもノックをしようか、インターホンを押すか迷う。

「人生は選択の連続だ」

そう言って自嘲気味に笑った彼は、このドアの向こう側にいる。
ノックを2回。
今の彼には電子音よりも鉄の響く音のほうが好ましいものであるという私の勝手な予想。

「開いてるよ」

そんな声が聞こえた気がした。
ドアを開けると、彼は窓際でぼんやりとしていた。
和室のワンルーム。畳の上に敷かれたベニヤ板。川に面した壁にすりガラスの窓。部屋の中央に置かれた画材。
一枚の絵に収めてしまえたのなら、それはきっと美しいものになるだろうという確信が私の心を離さなかった。

「いらっしゃい」

穏やかな声だった。
その声は私をとても安心させる。けれどその声から発せられる言葉に私は酷く不安を覚える時がある。

「また散らかして」

私の声は震えていないだろうか。自分の声なのに、上手く制御できない。
開口一番にこんなお節介なことを言う癖は、私が私自身に演じさせている。つまり私は彼よりも二つ歳上で、恋人である彼に少しだけお姉さんに見られたかったのだ。

「ごめん。さっきまで描いてたから。今はちょっと休憩」

「コーヒー買ってきたよ」

「冷たいの?」

「ううん。温かいの」

なんとなく、彼には温かい飲み物が似合っていた。
この部屋の近くにある自販機にはまだ温かいものはなかったので、少し歩いてわざわざ買ってきた。
夏が過ぎてもう随分経つけれど、歩いた分身体は少し熱を持ったし、この部屋も少し暑かった。

「冷たいほうが良かった?」

「こういうときに」

彼は窓際から立ち上がって、玄関に立つ私の方へと向かってきた。

「温かい飲み物を買ってきてくれるのはハコだけだよ」

そう言って彼は私の手から温かい缶コーヒーを受け取った。

「ありがとう」

小さく笑った彼は、そのまま部屋の真ん中にあるキャンバスを正面から見える位置に座るとゆっくりとコーヒーを飲み始めた。

「今日は、この前の続き?」

私も靴を脱いで部屋に上がると、彼の隣に腰掛けた。
畳が汚れないようにと敷かれたベニヤ板は、多くの色が混じり合っていて、それ自体が絵のように思える。
そしてキャンバスに描かれている絵もまた、多くの色で描かれていた。

「うん。ちょっと手直しをね」

彼の描く絵にはモデルや、現実にある題材はなかった。
抽象画と呼ばれるものだ。
点や線、あるいは面といった様々な形や模様が広がり、見る人に様々な印象を抱かせる絵。
私には彼の絵の真意を読み解くことは出来ない。
ただ彼の出す色や形、それら自体に不思議と惹かれている。
この感覚を上手く言葉にして彼に伝えてあげられないのが、とても歯がゆかった。ただ「好きだよ」と言ってあげるのが精一杯。

「良い絵だね」

私は素直に感想を述べた。暖色を基調としたその絵には物悲しさが潜んでいるように思えた。曲線でなぞられた白と、小さな円あるいは点描の白が踊るようにその悲しみを誤魔化しているような。

「ありがとう。でも良い絵ではないよ」

「どうして?」

「僕自身が納得できていない」

彼はちびちびとコーヒーを啜っている。
顔は変わらず穏やかだったけれど、瞳だけが、そう瞳だけが強く前方の絵に向けられていた。

「ハコはこれからどうするの?」

「私?」

「うん。仕事辞めたんでしょ」

「……うん」

彼の口調に責めているようなものは感じられなかった。
ただ私が後ろめたいだけなのかもしれない。

「わからないけど」

「貴方のようになりたいな」

「どういうこと?」

「あなたのように、誰かの心を震わすものを創りたい」

「ハコはものを書くのが好きだったね」

「うん」

「僕の絵を見てそう思ったの?」

「うん」

「それは駄目だよ」

「どうして?」

「ハコ自身の気持ちがそこにないじゃないか。僕のようになりたい。なってどうするの。誰かの心を震わすものを創った後は」

「わからないけど……」

「ものを書いて生きていきたいのなら、僕のようにを目指しちゃ駄目だよ。だって僕は絵で生きていけてないんだから」

彼は残りのコーヒーを一気に飲み干すと、立ち上がった。
私は彼を見上げた。視線の先にいる彼は今目の前にある絵のように、潜んでいる悲しさを柔らかい表情で誤魔化しているようだった。

「書きたいものがある?」

「え」

「僕にはある。どうしても描きたいものがある。誰に褒められなくても、売れなくてもそれでも描きたいものがある」

「なに?」

少し間があった。
開け放たれたままの窓から少し温い風が入ってきて、部屋を寂しさで満たした。

「心だ。僕の心の風景」

彼は真っ直ぐに私を見た。
その瞳の誠実さに私は思わず目をそらしてしまった。
思えば彼はずっと真っ直ぐだった。純粋さは弱さとして大衆に曝け出される。彼は被害者だった。
彼は元々イラストレーターで、彼の描くイラストは多くの人から支持された。柔らかいタッチで描かれる彼のキャラクターは老若男女問わず愛されたし、実際に多くの広告や雑誌、販促物に彼のものが採用された。
私がデザイン会社に勤めていた時も、彼のイラストを見ない日はなかったと言っていいほど彼のイラストは人気を博していた。

「心の風景」

「そう。心の風景」

彼が突然イラストを描かなくなり、変わりに今のような抽象画を発表すると世間は波が引いたように彼から興味を失くした。
それでも構わないと、彼は絵を描き続けていた。
次第にやってきた新しい波は非難に満ちた荒く冷たいものだった。
彼の絵には暖かい中にも物悲しさや虚しさが潜んでいて、冷たく暗い絵の中にはきちんと不安や絶望が含まれていた。
世間、あるいは心ない者たちは強烈に彼を責めた。
こんなにも残酷で傷つけることに特化した言葉があるのかというほど様々な面から彼は中傷を浴びた。
今ではもう、誰も彼の絵に見向きもしない。

「売れなくても?」

「うん」

「悪口を言われても?」

「うん」

「もし」

「もし、私が貴方の絵を嫌いだって言っても?」

「うん」

彼は躊躇なく答えた。
かつて
「ハコが好きだと言ってくれればそれで良い」
と彼は言ってくれた。
私は本当に彼の描くものが好きだった。
どうして世間はあんなに貶したのか今でも理解できない。
抽象の中に人間の醜い本質的なものを描き出していると、ある評論家が評価したこともあったが、それも世間の作り上げた波の前には何の意味もなさなかった。彼はイラストレーターで、彼の描くイラストを使えば商売に有効だというレッテル。
結局人間は自分が作り上げたイメージとそぐわなければ満足できないのだろう。
私が嫌いになっても構わないと言い放った彼に、今私がほんの少しだけ不満を抱いたように。

「そんなの寂しくない?」

「寂しいさ」

「ならどうして」

「僕が信じたからだ」

「なにを?」

「僕自身を。僕が描きたいものを」

「それって、誰に嫌われても構わないくらいに大事なの?」

「ねえハコ」

彼は私とキャンバスの間にしゃがみ込んだ。

「君は何を信じてる?」

「君は何を信じて、何に心を震わせて、ものを書くんだろう」

私は答えない。応えられない。彼の期待する返事を何一つだって思い浮かべられない。

「何を信じるにしても、それはハコ自身が選ばなきゃ駄目なんだよ」

「言っただろ。人生は選択の連続なんだ。君は僕を選んでくれた。今日までずっと支えてくれた。感謝してる。ありがとう。本当だよ」

「うん」

彼の顔がぼやける。私の声は震えていないだろうか。自分の声なのに、上手く制御できない。

「けれどハコが僕のようになりたいというのは駄目なんだ。それはただ自分の幻想を僕に重ねているだけだ。それは選んだ内にはならない。」

彼の声は酷く穏やかだった。けれどなんだろう。この違和感は。

「自分で選んで、信じて貫き通したものなら、ハコはこの先もきっと大丈夫だよ」

そう言って彼は私の頭をなでた。
彼の手は小さくて、指はとても細かった。女である私の手よりもその手はずっと綺麗だった。

「今日はもう帰ったほうがいい」

「わかった」

そう言って私は立ち上がった。
靴を履く時にもう一度、彼の部屋を見渡す形になった。
和室のワンルーム。畳の上に敷かれたベニヤ板。川に面した壁にすりガラスの窓。部屋の中央に置かれた画材。
そしてそこに立つ彼。
一枚の絵に収めてしまえたのなら、それはきっと美しいものになるだろうという確信が私の心を離さなかった。

こういうものを私は書きたいなと、とても自然に思えた。

「じゃあまたね」

「うん。また」


次にこの部屋を訪れた時、彼はそこにいなかった。
鍵は開けられたままだった。
不用心だなと思いつつ、しばらく待っていたけれど彼は帰ってこなかった。
次の日も、その次の日も彼はいなかった。
あの日を境にして私と彼とは二度と会うことはなかった。

これで最後にしようと訪れた時、私はキャンバスに掲げられていた絵が完成していたことに気づいた。
暖色を基調としたその絵には物悲しさが潜んでいるように思えた。曲線でなぞられた白と、小さな円あるいは点描の白が踊るようにその悲しみを誤魔化しているような絵。
川沿いに開かれた窓からは、夕暮れ近い光が差し込まれていた。
買ってきた温かい缶コーヒーを強く握りしめた。
そこから伝わった温度が私の中でつっかえていたものを静かに溶かしていく。

これらは祈りだ。
いくつもの祈りの火だ。
これが彼の心の風景だ。
私が書きたかったもの。
私の心の風景。

彼が残していったその絵を、私は持って変えることにした。
帰り道、駅へと続く商店街を歩いていると道沿いの街灯に光が灯った。
これも祈りなのだろうか。
私は絵を抱えて足早にそこを通り抜けていった。

誰かの祈りによって彼のイラストは支持され、
誰かの呪いによって彼の心の風景は殺された。
それでも、彼は持ち続けたのだ。
自分の風景を。
自分を自分たらしめる祈りの火を。

今、私の中に灯った火は
今、私の中に広がった世界は
彼の絵によって守られている。

ー了ー



ーーー

僕に詩を書かせてくれた貴女へ。

貴方のその気持をいつか僕も 誰かに返せたらなと思います。