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体罰を「その国の文化だ」と受け入ることはできるのか

こんにちは。世界一周をしながら、各国の学校で授業をやらせてもらっている飯塚直輝です。2010年から12年間勤めた私立中高の英語教員を辞め、2023年3月から旅を始めました。台湾、フィリピン、ベトナム、シンガポール、インドネシア、タイ、ネパール、カンボジア、バングラデシュ、インド、スリランカの11カ国を訪れ、1200名以上の生徒たちを教えました。

旅の日常はInstagramのストーリーズや動画にアップしています。


インド ハリドワールの小学生
フィリピン ボホール島の高校生

春休みや、夏休みには中高生向けにスタディーツアーを開催し、月1で小中高生向けに「オンライン街歩き」の授業をしているので、興味ある方は別記事を読んでみてください。



国ごとに学校が全然違う!

今回の記事は、今まで旅した世界の国と日本の教育の違いについて。他国の教育機関を訪れると、様々な違いに驚く。

インドネシアの制服

例えば、インドネシアの学校では曜日ごとに制服が変わる。バリ島の施設を訪問した時には、小学生の男子たちが、カラフルなシャツをまとって登校する日もあれば、バリで伝統的な白シャツにサプというスカートのような布を巻き、ウダンという帽子を被って登校する日もあった。

素敵な柄のシャツが可愛い
サプとウダンも似合ってる

台湾の給食

台湾の給食では、生徒が食器を持ってくる。荷物を減らしたいので、ご飯おかず用の丼と汁物用の器の2つ。ご飯をよそい、その上にお肉と野菜のおかずを乗せる丼スタイル。食べ進めると自然と全てのおかずが混ざり、最後にはそのエキスを吸ったご飯が完成する。僕も食べさせてもらったが、最後のご飯をかき込むのは最高だった。

豚肉は生姜と共に煮込まれていて絶品。肉と野菜のバランスもいい

タイのジェンダー

タイは多様な性に対して寛容な国であることを知っていたが、学校でも驚いた。中学生、高校生でも、男子と女子が仲良く、くっつきあっている。彼らは恋人関係ではなく、友達関係。友情に性別は関係ない。校内には髪が長くて可愛い男子も、髪が短くてかっこいい女子もいる。もちろん、セクシャリティーの似たもの同士で仲良くしているのだが、性的指向や見た目でバカにすることもない。何ならば先生でもゲイを公言している人も多くいる。日本の学校ではなかなか見れない光景だったが、それが当たり前のタイ。タイの方が生きやすさを感じる日本人の生徒は多いかもしれない。

祭りに参加した生徒たち。女役の男子生徒もいっぱいいます

もちろん、「素晴らしい」「羨ましい」と思う国がある一方で、その違いに不安を感じてしまう国もあった。

僕が訪れたカンボジアの公立学校では、授業中だというのに、生徒たちはぼーっと黒板の方を向いて静かに時を過ごしていた。何をしているのか生徒に尋ねると、先生が来ないからこうしているのだと言う。詳しく聞くと、先生は学校に来ていないので、生徒たちは何もせずに授業が終わるのを待っていたようだ。

インドの学校は14時に授業が終わる。夕方にのんびりできて素晴らしいと思ったら、ほとんどの生徒はそこから塾(別の学校?)に行き、勉強をするらしい。もちろんお金がかかるので、貧しい子は学費が安い塾にしか行けず、本当に貧しい子は午後は働かなければならない。教育格差は日本以上にあるかもしれない。

体罰を目撃

ネパールの学校で体罰を目撃

中でも眉を顰めてしまったのは、体罰文化がある国だった。ネパールで訪れた学校でこんなことがあった。ある日、朝の朝礼で、校長先生が2人の生徒を呼び出し、前に立たせた。校長は、何やらその生徒たちを怒鳴りつけて、怒っている。すると突然、生徒の胸ぐらを掴んで、彼らの背中を殴り始めた。髪を掴み、振り回し、最後に再度一喝し、生徒を列に戻した。もちろん、全校生徒が整列して、その生徒たちを見ているし、先生たちも見ている。

朝礼後、校長が僕のところに近づいてきた。「感情的になり生徒を傷つけてしまった」と弁解するかと思っていたら、「あの生徒たちは無断で早退したから、あのように分からせないとダメなんだ」と自分のしたことを誇らしげに語っていた。

スリランカの貧困問題

スリランカでは、朝からゴーグルのレンタルショップで働く少年たちがいた。話をすると、彼らは学校に行くのをやめてしまったらしい。スリランカでは、先生からの体罰や暴言で学校に行くのをやめてしまう生徒が多く、そういった子は働くしかない。現在のスリランカは経済的に厳しく、物価は上がっているのに、給料は上がらない状況らしい。僕が出会った14歳の男の子は、朝、昼のご飯を食べれなくて、食事は夕飯の一食のみ。空腹を満たすために、仲間が吸うタバコを吸わせてもらっていた。

朝から何も食べてなかった少年たちと夕食を一緒に食べることに

違いは素晴らしいはずなのに

人はそれぞれが違うからこそ、話していると面白さを感じるし、違う人同士が協力することで一人では達成できないことも可能になり、想像できなかったことも起こったりする。

文化も同じだ。国、地域で異なる文化があり、違いがあるから共通性も発見できる。そこに驚きや感動があるのだ。旅をする面白さは、その違いを全身で感じ、日本では感じられない文化を、模倣したり、食したり、言葉にしながら、異質なもの(文化)を身体に出し入れしていく過程で、自分のものの見方が変化していくことだ。そのためには、どんなに受け入れ難い文化的な違いでも、「これは正しい」とか「これは間違っている」といって、判断したり評価をするのではなく、ただ受け入れる(受容する)ことが必要だ。

では、体罰文化はどうだろうか。格差はどうなのだろう。貧困で苦しむ子どもたちの日常も、受容すべき「文化」なのだろうか。「体罰は子どものためにならない」、「格差は是正されるべき」、「貧困をなくすべき」は彼らのためだと決めつけて、僕(ら)の文化を押し付けるだけの「余計なお世話」にならないだろうか。

Enjoy Your Life

スリランカで出会った少年。彼は17歳で、将来の夢は日本でライフセーバーとして働くこと。酒もタバコも楽しむが、将来の夢もあって、性格も明るいし、正義感もある。彼と仲良くなって過ごした時間は2日間と短かったが、僕をカーニバル(という名の野外ダンスパーティー)に連れて行ってくれたり、一緒に海で泳いだりと、とても楽しい時間を過ごした。

17歳のKavinduくん

彼の口癖は "Enjoy your life" だった。僕が彼にちょっとした人生のアドバイスをしても、僕が「明日は暇だからどうしようかな?」と相談しても、全て "Enjoy your life" で終わり。そっけない返しだが、「君は君、僕は僕だから、君の人生を楽しめばいいんだよ」と言われているような、絶妙な距離間を感じさせる言葉だった。相手のことを思って干渉したいという気持ちや、自分が誰かと同じではなければいけないという考えから、自由にさせてくれる言葉だった。

"Enjoy your life" が、看過出来ない文化をどこまで受容するかという問いの答えになるわけではないことはわかっている。苦しんでいる人がいて、自分がそれを見過ごすことで、その人は苦しみ続けるわけだから。そんな人に "Enjoy your life"なんて言ったらぶっ飛ばされてしまうだろう。自分が苦しむ人の足を踏んでいることに気がつかないまま、"Enjoy your life" なんて言ったら、その人の足をより強く踏みつけることになるかもしれない。そういったことに無自覚であってはいけない。

でも、そんな気持ちの一方で、「正しい文化」や「正しくない文化」なんてものはない。その基準は支配的な一方の文化を持つものたちが決めたものであるというように思ったりもするし、その文化の中にいる人に対して「それも君の人生だからね」と思ってしまう自分がいる。貧困で苦しむ君も、辛いと感じている今のあなたも、幸せなあなたも、どんな君も愛してしまう自分もいるのです。

さて、皆さんはどう思いますか?


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