諦観について

なにごともなにごとも 道のあるものは、
諦めが肝要なり。


侘びにも、和歌にも、その他の道にも、諦め=諦観がターニングポイントになる気がする。

諦めきれぬ世俗の欲、名誉や地位への欲、認められたいという欲、財欲や物欲、食欲、憧れる異性(同性)と添いたいという欲、、、

この欲へのあきらめ=諦観の視座が、道を進む強固な澪標になる。

あきらめ は 明きらめ、 明きらむ であると思う。

諦観。
ここにないことをあきらかにみとめ、あきらめること。

不自由さに自らを縛る、不自由さにあそぶ感じ。

『「いき」の構造』で九鬼周造は、いきの徴表として「媚態」「意気地」「諦め」をあげ、崩れそうで崩れない微妙な緊張感が「いき」を形成するものだと説明した。

定家の
「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」
この歌を侘び茶の心をあらわしたものと武野紹鴎は示した。

この歌の情景では、目の前には、桜の花も咲いていなければ、紅葉が色づく景色もない。ただただ寂しい浦にある苫屋に秋の夕暮れがさしている。

目の前には、華やかな桜の美も紅葉の美もないといいながら、頭ではその情景を想像させている。それと今目の前にある寂しい光景が対比され、そのお互いの尊さを思わせる。
ないことをあきらむことがこの歌の本質なのではなかろうか。

利休は、家隆の
「花をのみ待つらむ人に山里の 雪間の草の春を見せばや」を示している。
この歌は、まだ「いま、ここ」にないものを、より積極的に肯定できる心の在り方を示しているように考えられる。

隠遁したマキャヴェッリが『君主論』を書きえたのも、諦観のなせる技か。
目の前にないからこそ明きらむことができることもあるのではないか。直観的な連想だが、いずれ確認したい。

諦観を友にできる求道者は、芯がぶれず道を進めるように思う。

諦観の重要さを知るもの同士は、お互いを深く理解し合える気がする。

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