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遊郭の移転事業

福岡の遊郭、柳町は石堂川の河口にありました。

明治36年、政府が地方病院を医科大学にする方針を決定すると、大学の誘致に長崎、熊本、福岡の三都市が名乗りをあげます。

福岡では九州大学設置期成会が結成され、渡辺興八郎が出した5千円を運動資金に誘致運動を行います。

その結果、京都帝国大学福岡医科大学が、福岡に設置されることが決まります。(後に九州大学となる)

しかし、誘致先である箱崎と柳町は一キロほどしか離れておらず。大学の近くに遊郭があるのは問題があるからと柳町の移転計画が進められました。

この移転問題は世論を二つにわけます。

教育に害ありとの説には反論する学生もいました。

当時は柳町と川を挟んだ水茶屋もさかんで、大学生はもてました。

当時の大学生は今とは比べ物にならないくらいのエリートでしたから当然です。

芸妓の中には学生の下宿先に通って世話をやく者、同棲する者が多くいて。

また学生との心中事件が起こるなど、話題が絶えなかったのです。

町側も移転には反対します。300年の間、多額の資金を投下してきたのです。

そう簡単に移れるわけありません。

そこで移転阻止運動を行いました。

廓の楼主達は上京して、時の総理大臣、桂太郎の弟を饗応し斡旋を頼みました。

ですが、効果はなく、移転場所は渡辺興八郎が持っていた住吉村の一帯に決定します。

(現在の清川町。現在は名残はなく、かつてあった井戸の跡だけが、ローターリーとして残っています)

この移転に関しては土地の利権を巡る噂もありました。

移転を決定した深野知事は箕島(美野島)に別荘を持っていて、これを売ろうとしましたが、当時は不便で寂しい土地なので買い手がつかなかったのですが

柳町が移転してから箕島も土地の値段が上がり、一坪20銭が、5円、10円と何倍にもなったといいます。

深野知事は直方、八幡でも同じように新しい遊郭地帯を指定して、移転計画を進め、失敗しています。

明治44年3月をもって、旧柳町の営業は停止され、妓楼は全て新らしい町に引っ越しました。

営業を始めたものの周囲には人家もなく、狸や狐がでるような場所で、お客も自転車で来ていました。当然、客足は悪かったようです。

しかし、10月に電車が通ると客足も戻ってきます。

この電車、博多電気軌道株式会社の発起人、そして大株主も渡辺興八郎です。

電車開通をきっかけにそれまで柳町ではなかった時間遊びが採用されるようになります。

時間遊びは廓の情緒が見られないと、格式を誇る店は今まで通り泊まり客だけを迎えていましたが、泊まり客は減少。

次第に時間遊びのほうが主流になっていきますした。

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