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春の月の下、ひっそりと咲け花よ

                 
 その日から、頭の中は彼女でいっぱいになった。
 彼女と会ったことはない。顔を知らなければ声を聞いたこともない。

 それでも、こんなにも愛しく思う。彼女の名前は西崎花世。四つ年上の二八歳。背が低く容姿も醜いという。だが、そんなことは何の関係もない。肉体の美醜など精神の清貧さに比べれば取るに足らないからだ。

 大正三年の正月。かねてからお世話になっている生田長江先生のもとへ新年の挨拶に行った。応接室で先生をお待ちしている間、テーブルの上の雑誌を何気なくめくった。それは最近世間を騒がしている女性だけで発行された《青鞜》という雑誌だった。そこに彼女が書いた「恋愛及生活難に対して」という文章が載っていた。

 彼女はその中で赤裸々に自らの体験を語っていた。それは、生活難の末に自らの貞操を捧げたという告白であった。その内容の衝撃。苦境に喘ぎ、それでも魂の高潔さを失わず強くあろうと願う健気な姿。それは僕の心を打ちのめした。文には人の魂が宿るという。僕はその文章に、彼女の魂に恋をしたのだ。
 長江先生が部屋にいらしたのにも気がつかないほど夢中になっていた。新年の挨拶もそこそこに彼女のことを尋ねた。先生は驚いた様子だったが、一度だけ訪問記者として家に来たとのことだった。どのような女性であったかと聞くと、小さく柔らかく、そして苦労をしてきたことが見えると言われた。

 その日から、僕の中に彼女は巣食ってしまった。彼女のことだけを考える日々が続いた。顔も姿も知らない名前だけの彼女。だけど、この思いを書かずにはいられなかった。僕は当時、新潮社という小さな出版社に仕事を貰っており、雑誌に詩や文章を掲載していた。 

 そこの評論に「恋愛及生活難に対して」に対する批評を書いた。それは批評と言う名の恋文でもあった。それでも気持ちは収まらなかった。
 僕は彼女の書いた他のものも読んでみたくなり、長江先生に請うて青鞜という雑誌をいくつか借り受けた。僕が守り、共に歩んでいく女性は彼女しかいない。そう考えるようになった。

 まだ会った事もない彼女に「我汝を愛す」という言葉から始まる長い長い手紙を書いた。それは渡せるかもわからない手紙だったが、書かずにはいられなかった。

 この世界は醜悪だ。格差と差別が蔓延っている。広大な邸宅で豪奢に耽る者があれば、その日の食物にさえ欠ける者もいる。僕は幼少の頃より、これら不平等がなぜ存在するのか不思議であったし、それを憎悪していた。そしてただ芸術のみが貧富の差を乗り越え、人の純心を呼び起こすものだと、世を変革することができるものだと信じていた。

 彼女と二人なら清貧の中で自らの芸術を高め合える。僕はそう考えた。

 それからは会う人、会う人に彼女の事を尋ねてまわった。彼女を知る女性からは悪意を込めて「およしなさいよ、あんなイカみたいな女。私の臍の下くらいの背しかないわよ」と答えられたこともあった。

 その後、詩人の河井酔茗先生が彼女の連絡先を知っているとわかった。すぐに河井先生のところへ行くと彼女への仲介をお願いした。そして二月、月が綺麗な夜、僕は彼女と対面した。

 たくさんの話をした。彼女は徳島県の松島という村に生まれた。家は三百年続く旧家で砂糖の製造をしており、父親は村長を務めていた。だが、彼女が学生になる頃には家業は傾きかけていた。それでも父親は彼女を新しく設立された県立徳島高に入学させてくれたという。
 そこで彼女は文学に目覚めた。それから雑誌への投稿を楽しみにするようになった。徳島高校を卒業後、小学校の教師をしていたが文学の道を捨てきれず、父親が亡くなった翌年、明治四十三年に上京してきたという。上京してすぐに教師の職を得たが、徳島とはあまりにも違う子ども達に慣れ親しめず、すぐに職を辞した。その後貧しい暮らしの中で、文学の道を目指していたという。

 軽い食事の後、彼女を送る途中、月明りの下で僕は肌身離さず持ち歩いていた手紙を渡した。そして、自分の思いを打ち明けた。

 しばらくして僕達二人は、早稲田鶴巻町で一緒に暮らし始めた。籍は入れなかった。そんな形式は僕達二人には不要だったからだ。喜びの中、僕は「婚礼の詩」を作った。僕は彼女を支えながら、共に芸術を極めんと欲した。

 だが、この結婚は思い描いたものにはならなかった。
 僕はその頃、ドストエフスキーの「罪と罰」を翻訳するという仕事にかかっていた。しかし所有していた辞書が何とも心もとなく、満足な仕事ができないでいた。

 そんなある日、彼女は家を空けたかと思うと戻ってきて僕に金を渡して「これで辞書を買ってください」と言った。着物を質に入れるなどしたのだろう。その気持ちは嬉しかった。だがこれをきっかけに、僕が理想とした彼女との関係は違う形になっていった。

 僕は生活する能力というものが限りなく低い。生活の全てを芸術の為に捧げているからだ。だが彼女は違った。精力的に家事と家計のやりくりをしながら、再び《青鞜》への掲載を始めた。内容は告白文と呼ばれる実体験の手記であった。僕との慣れ染めや僕自身の事、さらには僕が送った手紙まで雑誌に載せると言いだした。手紙とは二人だけの秘め事である。それを周知させる意味は何なのか、僕は止めたかった。しかし反対することは自分自身を偽る事になる。そんな不誠実は自分が許さなかった。

 彼女が自分の書く文章に対して助言をもとめてくることもあった。彼女は考え込まず、勢いで書いていくので誤字脱字が多い。それらを一つ一つ指摘する。表現なども僕の意見に合わせ彼女はすぐに訂正した。自分が書いたものを簡単に人の意見で変えられることが不思議でもあった。

 僕にとって言葉は芸術であり、芸術は言葉だ。だからこそ僕は、言葉を慎重に選んで絞り出して詩を紡ぐ。たった一つの言葉を書くのに何時間、何日もかかる事もあった。朝から机に向かっても思考が留まらず、浮かんできた理想の言葉は原稿用紙に書いた途端に陳腐な表現へと変貌する。苦しみもがくその横で、彼女は自分自身の体験を惜しげもなく、ためらいもなく書いていくのだ。真っすぐに大胆に。

 僕は勘違いしていた。彼女は逆境に震え何もできない子兎ではない。逞しく生きる野生の鼠だ。自らに降りかかる禍の全てを表現の素材となせる人なのだ。
 一方で僕は思う。自らの感情のままに書いたそれは、果たして芸術となりうるのか? それは、あまりに俗物的ではないのかと。

 彼女が文芸誌に掲載した「食べることと貞操と」という感想文は《青鞜》のいわゆる「新しい女達」の間で貞操論争を巻き起こした。彼女は女性には食べる為に貞操を利用しなければいけない事があるというのを実体験を元に書いた。

 彼女の告白文は激しい批判に晒された。貞操を守れないのなら死を選ぶべきだという反論もあった。彼女は怒った。「新しい女」達の多くは貧乏も苦労も、世間の厳しさも知らないお嬢様ばかりだ。だからそんな事が言えるのだと。彼女は反論への反論を書くだけでなく、それを書いた女性の家にまで行って意見を戦わせた。
 かと思うと、あっけなく自分の非を認め懺悔の文を書くのだ。僕は半ば呆れてそれを眺めていた。彼女は移り気で真っ直ぐで感情的で、そしてエネルギーに満ちていた。そんな彼女と一緒にいると、自分が苛まれているように感じることがあった。。

 僕は次第に彼女から距離を取るようになった。そして文芸仲間である別の女性と良い仲になっていった。その女性は彼女ほどの才も熱も無かった。それが僕を安心させた。その頃の僕は彼女との関係を解消することも真剣に考えていた。

 二日の間家を空け、戻ってくると机の上に封筒が置かれていた。彼女の書置きだった。そこには郷里の徳島に帰りますと短く書かれていた。
 僕はどこかで自分が彼女を捨てることはあっても、その逆は無いと自惚れていたのだ。彼女が居ない家は静かな闇に支配されていた。自分が彼女にした仕打ちに気づくと震えた。すぐに彼女の郷里に電報を打つと、手紙を書いた。

 一週間ほどして彼女は戻ってきた。まるでいつものように買い物から戻ってきたように。

 それから僕は、今一度詩作と翻訳に専念することを誓った。自分が生きて行く道は文学しかないと覚悟を決めた。

 大正六年、念願が叶い第一詩集「霊魂の秋」を出版することができた。本は思った以上に売れた。翌年には第二詩集「感傷の春」を刊行。詩人として立つことができた。

 僕の詩集は若い世代、特に女性に売れた。沢山の手紙も届いた。僕は常に女性の喜びや悲しみを詠いたいと思っていたので、この結果は嬉しかった。けれども先輩詩人達から僕の詩は通俗的で子ども向けだ、大衆に媚びているなどと批判された。それでも僕は読者の為、自らが尊敬するハイネやゲエテの詩集の翻訳を手がけ、また小曲集なども出した。本は売れたし名も売れた。けれども世間の評価とは逆に、詩壇からは二流詩人だの小曲詩人などと馬鹿にされ続けた。

 それならと長編小説に挑むことを決めた。もともと小説は書いていたし、ずっと暖めていた物語もあった。経済的な余裕もできた今なら書けると思った。小説執筆の間、彼女は献身的に尽くしてくれた。僕も彼女に多くの助言をもとめた。 

 大正一二年、三年の年月をかけた初の長編小説「相寄る魂」を刊行した。純愛を貫くために命を絶つ男女の物語だ。この本も僕の読者には売れた。だが、文壇では話題にすらならなかった。完全に黙殺された。

 それでも僕は出版社から求められるまま女性の恋を詠っていた。それが売れるからだ。女性からの手紙はいつも届いていたし、情熱的な愛をぶつけてくるものもあった。だが僕はわかっていた。絞り出す言葉は虚ろになり、飾られているが中身はなかった。気が付くと自らが嫌悪していた、空虚な言葉を使う存在に自分がなっていた。若い女に溺れ、酒で身を汚してもみた。
 そんな中、彼女は僕の浮気さえも素材として、苦しみもがく感情を書き次々に発表していった。そんな彼女の底知れぬ強さに、僕は恐怖さえ覚えるようになっていた。彼女の強さはいつも僕を苛むのだ。

 講演の仕事で大阪から別府に向かう船に乗った時、僕はかねてから心に決めていたことを実行にうつす機会が来たと知った。船の甲板に出て瀬戸内海の海図を眺めていると、どっちが海でどっちが陸なのかわからなくなってきた。僕は唐突に理解した。全ての事象は表裏一体なのだ。かつて僕はこう詩を詠んだ。

 輝きにほう世界と思った此の世界は暗い牢獄にすぎなかった。
 人の心を純化するものと思った芸術は、人間の思いついた一等悪い洒落だった。
 美しい天才かと思った自分は、醜い道化者に過ぎなかった。
 あぁ、このあさましい現実に十分堪えしのんで行くためには
 どれだけの厚顔、どれだけの鈍感が要ることか!
 あいにく、それを自分は持合はさない、これが本当をうたった詩だ。

 どちらが表でどちらが裏なのか、どちらが真実でどちらが嘘なのか。そんな事はなく。それは同時に存在した。強く真っすぐであると思っていた彼女は、同時に弱く守るべき存在だった。そう、僕は間違えてはいなかったのだ。
 深夜、船が播磨灘を通る時、見上げると空にはあの日と同じように月が輝いていた。南の海には淡路島が見えた。その先は彼女の故郷に繋がっている。僕はもう一つの世界へと旅立つため、甲板から暗い海へと身を投じた。


 昭和五年五月一九日、詩人生田春月は瀬戸内海に身を投げた。享年三八歳。遺書の最後には妻である生田花世に向けて「今にして、僕はやはりあなたを愛していることを知った」と書かれていた。


 後記:大正時代に活躍した詩人、生田春月を書いた作品。彼のことを知っているという人は、本当に少ないと思う。「青鞜」を題材にした戯曲を書きたいなと思って調べている途中で、生田花世のことを知り、この作品を書こうと思った。徳島の阿波しらさぎ文学賞に応募したが、1次で落ちた作品。





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