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狂気は山から来て、どこへも行かない。映画「MERU/メルー」(感想)

 ネズミと暮らす小さな部屋の、とりわけベッドの上で一生を過ごしたいと思ってきた私が、4月某日、小さな山のてっぺんに居た。

 メルーのせいだ。標高6,250m、ヒマラヤ山脈のメルー中央峰に聳え、初めて人類が挑んでから30年もその頂に登山家を寄せ付けなかった"シャークス・フィン"と呼ばれるそそり立つ壁。このフィンに真っ向から挑む、超難関雪山登山ドキュメンタリー映画「MERU/メルー」。

 山というのは土が盛り上がったものの特に大きいやつのことだが、それが世界最大ともなると高さが9,000m近くになる。一番大きいのがヒマラヤ山脈にあるエベレストで8,848m、8,000mを超える山はこの地球に14峰しかない。そんな山々を制覇してきたトップクライマーたちがこの映画の主人公だ。

何故、それでも登るのか

 メルーへの挑戦者3人は、まず8日分の食糧を持ってこの頂に挑む。天候に恵まれず、崖に吊るしたテントの中で何日も吹雪をやり過ごし、ようやく晴れた時にはもう食糧は半分しかなかった。よし、登ろうと出発してから彼らは合計17日間もこの山に滞在した。

MERUをもっと楽しむ 「デスゾーンってなに?」
・標高8,000m以上の領域は"デスゾーン"と呼ばれる
・酸素が地表の1/3の濃度しかない=人間が呼吸して取り入れられる酸素より体が消費する酸素のほうが多い=48時間以上は生存できない(絶句)
・(最早宇宙に片足を突っ込んでる)
・(半分地球の外側に出てる)

 それでも頂上まで、あと100mのところで断念した。どうも安全が確保できないらしい。氷点下20度の断崖絶壁で食料も燃料も尽きかけ、それでも登ってきたこの山にそもそも安全なところがあったのか。一般人の考える「危険」の切っ先みたいなところに、彼らの危険はあるらしい。

 山を下りた彼らはそれぞれの日常をそれぞれ山で過ごすが、雪山で滑落して頭蓋骨がざっくばらんに砕けたり、雪崩に巻き込まれて奇跡的生還を果たしたり、といったトラウマ級の事情を各々が抱えながらもメルーの頂に思いを馳せ、到達するための努力を尽くす。登頂失敗の知らせを聞けば、俺たちがやるしかないかと戻ってくる。 もうこの辺りの思考ロジックはさっぱりわからない。

MERUをもっと楽しむ 「メルーってどんなところ?」
・映画の舞台は標高6,000m(デスゾーンより2千mも低い!)=揚力に必要な空気が少なすぎて普通のヘリコプターが飛べなくなる高さ(絶句)
・高山病というのは2,000mを超えればなり得る
・居るだけで危険な領域を90kgほどの荷物を引き揚げながら手と足で登っていく。その間気温は氷点下10度を下回る
・斜面が急すぎてテントを立てられないため、崖にテントをぶら下げて眠る

 何でなんだよ、山に何があるんだよ!! 気になりすぎて、国内外の登山家について調べてみた。MERUを観て薄々感づいてはいたが‥やっぱり山に登る奴は軒並み全員気が狂ってる。

よし登ろう

 東京は高尾山、標高599m。安心してほしい、私は自分の体を信頼していない。メルーの10分の1に満たない高さの小さな山、その麓に私はいた。高円寺DRAMAレンタル店でメルーのDVDを借りてきて、まだ返さないうちに。

MERUをもっと楽しむ 「壁の登り方①」
・クライマー(登攀者)とビレイヤー(確保者)という役割に分かれ、互いにロープで結びあう
・クライマー:壁を上る。壁の途中途中で、岩の割れ目に金具を突っ込んで固定し、金具についたカラビナにロープを通していく
・ビレイヤー:最下部で待つ。クライマーが落下したら、ビレイヤーがぐっと踏ん張ることでクライマーが設置した金具を支点に落下を最小限に防ぐ

 登りは本当に辛かった。息も切れるし足は上がらないし、どうしてこんなところに来たのかと同行者をなじった。ちなみに同行者というのは、私の登山欲求を見かねて、初心者ひとりでは危ないからとついてきてくれたご近所さんだ。完全な八つ当たりである。

 道中の冷やしキュウリは美味しく、私は味噌に忠誠を誓った。頂上で食べた味噌田楽もまた美味しかった。

MERUをもっと楽しむ 「壁の登り方②」
・1回の登攀で登る単位をピッチという
・1ピッチの長さはロープの長さに依存し、最大40m~50mに達する=クライマーが登攀のためにピッケルで雪壁をガツガツ叩いた雪の塊が、ビル15階分ほどの高さから数十メートル下にいるビレイヤーに降りかかる
・クライマーがロープの限界内で安全を確保できる場所に到達したら、ビレイヤーが支点に使った道具を回収しながら登っていく

 頂上は木が茂り、大した景色は見られなかった。レジャーシートを広げてお弁当を食べる家族連れが興を削いだ。低い山とはいえこんなに辛い思いをして登ったのに、頂には何もなかったのだ。

 休憩もそこそこに山を下った。もう「あとどれだけ登れば山頂に着くんだろう」という不安はない。山道を一歩一歩確かめ、天狗の気配に怯えながら進んだ。そうして麓に着き電車に乗って高円寺のいつもの景観が目に映ったとき、ふと日常に戻ってきて"しまった"な、という思いがよぎった。その瞬間、怖気が走った。頑張って、山を登って、下りた。このシンプルな達成感が、私の後ろ髪を引いている。私の心に芽吹いた小さな喜びとMERUの狂気は、地続きになっているんだ。

まとめ

 山というのは土が盛り上がったものの特に大きいやつのことだが、それらが必ず抱いている"頂"という完璧な達成感をもたらすものが、山をという存在を完全たらしめているのだろう。もう化物の類といっていい。結局今年は高尾山に始まり、筑波山、弘法山、そしてまた高尾山に上ることになった。ちなみに最初の登山のあとボルダリングに嵌って肩を壊した。結局全治2ヶ月、故障と言っていいレベルである。

 私がまた山に登りたいと思うだなんて、山に登ってみるまでは想像だにしなかった。あの達成感は、きっと狂気の片鱗みたいなもので、繰り返して繰り返してクロワッサンみたいに練りこんで膨らんで、いつしかMERUのような巨大な狂気に飲み込まれているのだろう。

MERUをもっと楽しむ 「登山家の狂気 山野井夫妻の例」
・夫婦で挑んだギャチュンカンの下山中雪崩に遭い、氷壁で妻は気絶して宙づり、夫は視力を失う
・壁に打ち込む杭の場所を探るため、夫は手袋を脱ぎ「どの指が一番要らないかな‥」と考え左手の小指を氷に這わせ、杭1本に指1本を消費しながら氷壁を下り、夫婦で生還。
・両手すべての指を失った妻の方が早く安定したクライミングに復帰したことが悔しい夫、「指 落とそうかな‥」などとぼやく
・夫婦あわせて指が22本しかないが、その後も未踏破ルートを開拓していく。

 登場人物全員気が狂っていて笑いすらこみ上げ、エンディングでなぜか号泣という超バランスの抱腹絶倒ホラードキュメンタリーである。登山という行為自体が最早黒魔術的で、彼ら自身が折り重ねてきた狂気の代償を払ってもなお山へと向かい、業を重ねるその様を、貴方の目で確かめたなら彼らが自身と同じ人類の延長線上にいることを感じて、そっと寒気がするだろう。風の音ひとつ息遣いひとつ聞き逃さないよう、ぜひ大音量で鑑賞いただきたい。

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