綺麗好きで有名なので

「俺、本気で人を好きになった事ないんだよね」

真っ白な泡いっぱいの真新しいバスタブで後ろから抱きしめられ、初めて愛を交わした直後だった。


真っ赤に染まった古びたバスタブの淵をバスタオルでなぞりながら、それらの出来事が全て夢だったような気がした。

たぶん、全部きれいにしたかったのかもしれません。
はい、そうですね、食べたかもしれません。

ぜんぶ綺麗にしてあげました。

あの時ビラを落とさなければ、彼が私の髪を綺麗だと褒めなかったら...


透けそうな白肌に薄化粧、華奢なフレームの黒縁眼鏡
肩につかない程度に揃えたストレートの黒髪は艶を欠かさぬ様に細かい手入れを欠かさない。

襟のあるシャツを第一ボタンまできちんと閉めた無難な装いは、私が清楚である事を世間にしらしめている。

これらは生真面目で気の弱い男性の浪漫を刺激するための武装だ。

こ、う、い、う女性になればきっと真面目で普通の男性に選ばれると信じていた。

爽やかな笑顔と綺麗に陳列された白い歯の7つ年上の彼とは、住宅展示場のバイトで出会った。

ばら撒いてしまったビラを拾ってくれた時に見下ろした、左寄りのつむじと柔らかそうな髪が印象的だった。

ブースの異なる営業の彼とは話す機会もなく存在もろくに知らなかったが、午後に喫煙所で再会した。

「あ、さっきの」

同時に出た言葉に、目を合わせ笑い合った。

営業マンらしい柔らかい口調で話し上手の彼とはすぐに打ち解けてたものの、緊張でじんわり汗の滲む左手でライターをくるくる回転させていると彼の足元に落ちた

「すぐ落とすね」

彼が少しいじわるにはにみながら二度めに顔をあげた時には、すっかり堕ちていた。


胸元のネームプレートをじっとみていたら斜め下から覗きこまれる

「新井瑛心って言います!周りからはルンバと呼ばれてます」

「えっ」

「綺麗好きて有名なので」  

それから、バイトへ行くたび彼の姿を探した。

スマートな会話で退屈な休憩時間を楽しませてくれたが、どんなに距離が近くなっても私達は互いを名前で呼ばない

「よろしくね、心優(みう)ちゃん」

結局、最初に呼ばれて以来一度も呼ばれなかった。


経験の少ない私でもわかるどことなく危ない空気感で、胡散臭い男だと一目でわかった。

目の奥の黒い何かか、若い女と消えてしまった父親とどことなく似ていたからだ。

胸の奥で鳴る警告音を聴き流し、頭では危険だと分かっていながらもほだされる。


何度か食事に行き、触れるか触れないかのもどかしい距離感を繰り返すうちに

目の伏せ方、指の動き、うっすら香る香水の匂い、ネクタイの角を触る小さな癖、彼をつくる全てが欲しくなった。

私以外の女の子と楽しそうに笑い合ってるのを見るだけで、気が狂いそうだった。

「あいつ、意外とギャル好きらしいよ」

会社の飲み会で、彼と仲良い社員の男が肘を肩に当てながらニヤニヤと呟いた

普通で真面目な男性に選ばれるためだけのアイデンティティを捨て、眼鏡を外し髪を柔らかいピンクベージュに染めてシャツのボタンをふたつ外した。

「めちゃくちゃいいじゃん!髪ほんと綺麗」

重い女だと悟られたら二度と呼ばれないかもしれないので、わざと他の男性社員と仲良くしていたらいつも明るい彼が珍しく機嫌が悪い。

何を考えているか分からない彼の、初めてみた拗ねたような表情にうっすらと愛を感じ、何より感情をゆさぶれたのが嬉しくて私は間違ってないと思った。

「ねぇ、今度家に行ってみたい」

白い太腿をみせびらかし、精一杯の勇気を出してお願いすると一度だけ部屋に入れてくれた。

「綺麗好きは、本当なんだね」

とにかく物が少なく、高級そうな家具とお洒落なインテリアで何処もかしこも綺麗だった。

お風呂場だけ少し暗くて、古びたバスタブが部屋の雰囲気と違い違和感がある。

「あぁ、そこだけ古いでしょ!はいはい見ないで」


両肩をおさえられくるっと振り返ると、洗面所には
色違いの歯ブラシが仲良そうに並んでいた。


彼は、黒髪を後ろで一つに括り化粧っ気のない保育士の幼馴染と結婚していた。

「嫁、ほんと色気ないよね。キミとは大違い」

「可愛いだけでなんでも許されるでしょ、いいよね女の子は楽で」

彼の酷い言葉など全部どうでも良かった
一時でも側にいれたらそれでいいと思ってしまった

愛のようなものでぐちゃぐちゃになれたら
もう、何でもよかった。


初めて愛を交わし、愛はないと言われた日と同じ
418号室にいる。

この部屋に来るまでに近くのコンビニでチョコレートだけをありったけ購入した。

意味なんて何もない

ただ、ぼんやり棚を見ていたら欲しいものが分からなくなって何も選べないことに恐怖を感じた。

何かを選べる自分になりたかったのかもしれないけれど多分、意味なんて何もない。


あれから、名前で呼んでくれる普通の彼ができた。

真面目で普通の彼に選ばれたのに、本物らしい愛はどこか偽物で居心地が悪い。


「はじめまして、ウミです」

どうでもよい彼等に抱かれ薄汚く落ちてくことで
ようやく許されて、幸せの輪郭がはっきりする。


貴方の言う通り
女は、可愛いだけで何でも許されるのね!


背広をラックにかけ、自慢の髪をかき上げヘアクリップで挟みながら微笑んだ

「名前、呼んでくれたらなんでもしてあげる」

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