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手なんか、洗えば落ちる

「修、手なんか、洗えば落ちる。」

母によく言われたものだ。
私が適当に掃除をしていたりするとすぐにころ言われた。台所のシンクの排水溝の中とか、汚れていたところは触りたくなくて、ちょこちょこっとやってるとこんな風に言われた。

(手が洗って落ちたら大変だろう)
子供の頃は、こんな屁理屈を心の中で思っていた口に出したら、また怒られるのはわかってるから、黙って心の中でこんなこと思っていた。

もちろん
「(汚れた)手なんか、洗えば(その汚れはすぐに)落ちる。(適当にやらないで、きれいに洗いなさい。)」
の略であることぐらいは、子供の頃の池田少年にも十分にわかっていた。だけども、汚いのは触るのは嫌だし、反抗期だし、いやいややっていた。

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しかし、この言葉、名言だなぁと思う。今、改めて思う。

何かをやろうとすると、めんどくさいことや、ちょっと汚いことというのはある。汚れを除去してからでないと始められない。こういうこということはある。下準備って、いまだにめんどくさい。

そう思っていると、心の中で、母の叱り声が聞こえてくる

「修、手なんか洗えば落ちる」

こう言う叱り声が聞こえてくる。
(そうだよなぁ。手なんか洗えば落ちるんだよなぁ)
と思って、やり始める。

最初は、「手」が汚れるし、気持ちが悪い。でもそれを通してやっていくと1つの形になる。気持ちが良くなる。「汚れ」は洗えばよろしい。きれいになる。

全く持って母の言っていた言葉は正しい。

今更に思う。汚れるのが嫌だからといって何もしないでいる。それは、一見きれいに見えるけれども、洗わないでいたらそれは本当にきれいなのだろうかと思う。そして、何も出来ないで終わる。

汚れた手は洗う。洗えばきれいになる。だから、むしろ汚れた手の方がきれいなのではないかということである。

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明日は母の命日だ。

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