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「分からないことが分かった」の授業から、「分かっていない自分が分かった」の授業への変更

授業中の学習者のつぶやきで、いい授業の時に出るつぶやきは

「あ〜」

だと言うのは、実は一部ではよく知られている事実。

「あ〜」と言うのは、茂木健一郎さんのアハ体験と同じであって、説明されたことが理解の次の納得の次元で承認された時に出てくる言葉だと言える。つまり、深いところで分かった時に快感とともに出てくる言葉なのだ。

この言葉がどのぐらいの頻度で出てくるかで、その教師の学習の指導力が見て取れると考えることもできる。その一方で、「え〜」とか「う〜ん」とか言う言葉が出てくるときは、教師の説明に対して、理解ができないとか、納得がいかないのサインとして考えられ、いい授業ではなかったと言うこともできる。

ところが、これを教師主体の学習ではなく、学習者中心の学びを基軸に考えると違った様相を呈することになるのではないだろうか。学びを支える支援の場合、教師が説明をして「あ〜」と言う場合は、実は良くないのではないかと思われる。「あ〜」が深いところで分かった言葉だとしたら、その学習者は、その部分についてもう先に進もうとは思わないだろう。

私が大学に行って一番最初に修正した授業のデザインはここだった。中学校の教師だった私は、懸命に中学生に理解させようとしてきた。分からないと言うことが無いようにしてきた。それを大学でもやった。すると、学生たちは理解するし、納得もする。しかし、その先に進んで行って学ぼうと言うことにはなっていなかった。

考えてみれば当たり前である。分かったんだから、もうそれでいいのだ。もう、勉強なんてしなくて良くなったのだ。

そこで、デザインを変更した。分からないことが分かったの授業から、分かっていない自分が分かったの授業への変更である。勉強しなければならないことが山盛りあることに気がつかせる。自分では当然だと思っていたことが、それは実は単なる思い込みであったことを気がつかせる。「え〜」「う〜ん」と言う言葉は、その先にある自分の学びのための問いを得るきっかけがここにあると言うサインの音と考えることもできるのではないだろうか。

自分が理解している世界を一度否定されることで、「え〜」「う〜ん」と言う言葉が出てくる。しかし、それはその先に進むために必要なことで、少なくとも学びを手にしようとする者たちは、ここの部分を通過せざるを得ない。そして、学びの支援とは、実はこの「え〜」「う〜ん」と言う言葉が出やすくすることではないかと思うのだ。

「え〜」「う〜ん」となって、腑に落ちない説明があった時、自らの答えを求めて学びが始まる。そういう授業のデザインが大事なのだと考えるようになった。

今、学習者主体の授業づくりということが言われている。それはいきなりはいどうぞ、学習者主体ですよと言って始めることはできない。まずは、「え〜」「う〜ん」を生み出す授業デザインを考えて、その先に学習者が自分たちで調べたり考えたりするような流れを設計することで、その学習者主体の方向に行くのではないかと考えている。

詳しくは、「【指導のパラダイムシフト#29】主体的な学びを学ばせる④授業で観察される姿」と、#30,#31です。
https://kyoiku.sho.jp/154194/

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