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通知表に色々な顔を

物いわぬ四方のけだものすらだにも哀れなるかなや親の子を思う 

源実朝の歌を出すまでもなく、親は子を思う。色々な事情でそれが厳しい親もいなくはないが、多くの親はそれを思う。内田樹先生がおっしゃった「子どものためになら死ねる」「子どものためには死ねない」という不条理の中にいながら、親はこのことを思う。

教師も子どものことを理解しようと思う。中には、親以上に子どものことを理解していると思う若い教師もいるだろう。しかし、それは違うと思ったほうがいい。子どものことを思う気持ちを親と競ってもしょうがないのだ。役割が違うのだから。

親は、生まれる前から子どものことを知っている。母親の胎内に抱かれている時間から、いやその前の授かりたいと願っている時から知っている。教師が知れるのは今とその前後数年だろう。だから、そこで競っても仕方がない。

ただ、教師が親よりも子どものこと知ることがある。それは、集団の中にいる子どもの姿。特に、学校の集団の中にいるときの姿だ。これは、親にはわからない。または、とてもわかりにくい。教師はこの情報を集め、親に提供したい。

子どもは、親の前と教師の前と仲間の前では見せる顔が違う。それが当たり前。状況に応じて振る舞い方が違うのは当たり前だし、そのように育てるものだ。「お家と外では違うの」と。だから、学校の顔ができる。その顔を、親に知らせてあげるのだ。

もちろん、学校と言ったって、好みの教科かどうかで例えば、体育と算数の時の顔は違うし、活動の掃除と給食の時の顔も違う。好きであろうクラブ活動と休み時間の顔も違うだろう。

そんな色々な顔が、通信簿の所見欄に書かれてると親は嬉しいものではないだろうか。

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