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書籍レビュー『破戒』島崎藤村(1906)差別とは何か考えさせられる

※3000字近い記事です。
 お時間のある時に
 お付き合いいただけると嬉しいです。

『破戒』と「部落問題」

島崎藤村は、以前、
詩の作品を紹介したことが
ありました。

この詩から興味を持って、
ぜひとも島崎藤村の
小説も読んでみたいと思い、
手にしたのが本作です。

『破戒』は島崎藤村の
実質的な小説デビュー作で、
「自然主義文学」に分類されます。

「自然主義文学」とは、
「真実」を描くために、
あらゆるものを「美化」するのを
否定する文学で、

19世紀後半にフランスから
はじまりました。

本作でも「美化」を
否定するために、
当時の「部落問題」を
つまびらかに描いています。

「部落問題」は、
江戸時代の日本にあった
身分制度において、

「士農工商」よりも
下の階級の人たちが
差別された社会問題です。

「賎民(せんみん)」と
呼ばれる穢多(えた)・
非人(ひにん)の人々は、

居住地域が限定されていたため、
そのような身分制度が廃止されても、
その地域の出身であるだけで、
いわれのない差別を受けました。

こういった問題は、
今でこそクローズアップされる
機会がありませんが、

「部落」という
言葉自体も事実上、
放送禁止用語になっており、

(「集落」に言い換えられる)

メディアでも慎重に
取り扱われる問題です。

ある種のタブーになっている、
ということは、
知る機会が少ない問題でもあります。

そういった問題について、
敢えて、実態を描いた本作は、
文学的な意味だけでなく、

社会的にも重要な意味を持つ
作品といえるでしょう。

なお、巻末の資料によると、
本作は一度絶版になっており、

1930年代に復刻された際には、
大幅な改定がされ、
文学的な価値も貶めてしまった
過去があるそうです。

絶版・改訂のいずれも
差別問題に配慮したものでしたが、
結果としてこの問題を伏せるような
形になってしまいました。

今、現代の私たちが
読むことのできる『破戒』は、
初版本を底本にしたものです。

初版本を底本に
するようになったのは、
1971年からのことで、
そんなに昔の話ではありません。

『破戒』が改訂されたのが、
1939年ですから、

「部落問題」は
30年以上にわたり、
蓋をされ続けてきた問題
とも言えるのです。

人には言えない出自

物語の舞台は明治後期の
長野県、飯山で、
主人公は小学校の教師を務める
瀬川丑松という青年です。

丑松は、被差別部落の出身ですが、
父親の教えを守り、
その素性を周りに隠しながら
過ごしてきました。

なぜ、父は素性を隠すように、
丑松に諭したかといえば、
やはり、当時は差別の問題が
深刻だったからです。

丑松は、学校では
生徒や同僚から慕われる
理想的な教師でした。

しかし、その秘密を
明かしてしまえば、
今は丑松を慕う人たちも
嫌煙するようになるだろう、

という考えのもと、
丑松はひたすらに、
自分の出自を隠してきました。

ところが、丑松には
憧れる人物がいました。

丑松と同じく
被差別部落に生まれ、
その解放運動に力を入れる
猪子連太郎です。

猪子は差別を恐れることなく、
「我は穢多なり」
と素性を明らかにしたうえで、

たくさんの著書を
執筆していました。

丑松はこの猪子の著書を
すべて愛読するほど、
猪子に憧れていますが、

この気持ちも周りには
打ち明けることができません。

そのことを周りに知られては、
自分の出自が
バレるかもしれないからです。

しかし、世の中で見られる
差別に対して、

丑松は自分の感情を
うまくごまかすことが
できませんでした。

例えば、丑松が暮らしていた
寮で部落出身であることが
周りに知れた人が、
寮から追い出されてしまうんですね。

この時、丑松は
直接、そのことに抗議をする
わけでもないのですが、

間もなくして、
彼もこの寮から
引っ越すことにします。

急な引っ越しなので、
当然のことながら、
周りからは不思議がられます。

丑松には
自分と同じような人が、
目の前で差別されるのが
耐えられなかったのです。

その場にいることすらも
耐えられなかったのでしょう。

差別とは何か考えさせられる

さらに、運の悪いことに、
丑松が周りから
慕われていることを

良く思わない
人物たちもでてきます。

校長と、その息がかかった
教師たちです。

やがて、彼らが、
丑松の出自を知るのは、
必然の流れでした。

果たして、丑松を妬む、
彼らはどんな行動に出るのか、

また、それを受けて、
丑松は父の教えを
守り抜くことができるのでしょうか。

そういった展開が、
本作の読み応えのある
部分でもあります。

相当、古い作品なので、
この記事を
読んでいる方の中には

「でも、難しんでしょう?」
と思われる方も
いるかもしれませんね。

たしかに古い文章なので、
現代とは言い回しが
違うところは多いのですが、

不思議と読みづらさは
感じられませんでした。

むしろ、現代の言葉で、
小難しく語る文体よりも、
よっぽど、こちらの方が
読みやすいです。

巻末に丁寧な注釈が
付いているから、
というのもありますが、
それだけではない気がします。

冒頭に記事のリンクを貼った
同じ作者の詩もそうなんですが、

言葉がスッキリしていて、
たとえ、言い回しが
古い言葉であっても、

なんとなく言わんとするところが
掴みやすいんですよね。

もちろん、相性というのもあるので、
たまたま私にとって、
著者の言い回しが
フィットするのかもしれませんが、

少なくとも、私は、
こんなに古い作品を
(しかも純文学)

読みやすい
と感じたことはありません。

そういう点でも本作は
オススメできるのですが、

何よりも、そこに描かれた
「部落問題」が
一番の見どころですね。

はっきり言って、
今の私たちからしたら、
こんな差別は、

まったくもって、
理不尽で、
理解ができないものでした。

江戸時代の身分が
なんだというのでしょうか。

その集落の出身だからと言って、
人間として、
何か自分たちと違うところが
あるのでしょうか。

いや、厳密に言えば、
同じ人間なんて、
一人もいません。

だったら、
違いがあるのも当然ですし、
そこに優劣があるなんて、

まったく愚かな考えだと思います。

しかし、形は変わっても、
この世から「差別」は
なくなりません。

私自身も無意識のうちに、
何かを差別しているのでしょう。

そういう自覚は必要だと
思うんですね。

みんなが仲良くすればいい
なんて、甘い理想は
毛頭ないんですが、

少なくとも、
人種、性別、職業といった
たかが人間が決めた
属性の一つで、

誰かを貶めていい
とはまったく思いません。

前書きで作者自身が
「古い時代」の話と
書き出していますが、

これは決して
風化させてはいけない問題です。

敢えて、こういった問題に
深く踏み込んだ
本作の意義は、
時代が変わっても不変です。


【作品情報】
初出:1906年(自費出版)
(のちに新潮社が買い取り、
 1913年に出版)
著者:島崎藤村
出版社:新潮社

【著者について】
1872~1943。
岐阜県生まれ。
教員を経て、
1897年に処女詩集
『若菜集』を刊行。
代表作『若菜集』(1897)、
『破戒』(1906)、
『春』(1908)、
『夜明け前』(1929~1935)など。

【同じ著者の作品】

【自然主義文学の作品】


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