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圧倒的な映像快感体験をもたらした「スター・ウォーズ」の幸福感をその後の作品が凌駕できない理由

 サーガとしては現在のところ全9部作、その他の派生作品を含めると実写、アニメを含む映画、テレビシリーズなど夥しい作品数で世界観が構築されている「スター・ウォーズ」。その中でも映画作品として「どれが最も優れたエピソードか」というテーマは常にファンの間で議論というか、話題になっている。

 とはいえ、たいていの場合は代表的意見として「『帝国の逆襲』こそが最高のスター・ウォーズだ」というものと、「いや、それも第1作の『新たなる希望』があってこその話だ」という主張が交わされることで平行線を辿ることになる。この2つの構図にそっくりなものとしては「ゴッドファーザー」と「PART II」はどちらが優れているかという議論があるが、そもそも歴史的ヒット作である「スター・ウォーズ」の続編として製作が進められた「帝国の逆襲」が「よくある続編ものではなく、我々は『ゴッドファーザーPART II』のような質の高い続編を目指している」とかなり早い段階で宣言していたことを考えると、その目標が見事に実現できたことに安堵すると同時に、当然の結果としての議論だと言えるだろう。

 で、大勢としては「帝国の逆襲」の方が優勢なのは1983年以来変わらない状況だと思う。公開当初は少なくともファンの間では不評だったものの、完結編として公開された「ジェダイの帰還」のハッピーエンドに比べて、メインキャラクターの苦難と苦悩ばかりが描かれた「帝国の逆襲」はそれゆえにドラマチックな展開に満ちており、第1作で設定されたキャラクターたちの物語にはより奥行きが与えられ、それをピーター・サシツキーのカメラがシリアスでエキゾチックなルックを与えていた。そして何よりも全盛期を迎えたジョン・ウィリアムズがキャリア中最高のクォリティの楽曲を生み出した。今や世界中の聴衆が興奮し、奏でるオーケストラも我を忘れて夢中になる「帝国のマーチ」を筆頭に、最高にロマンチックな「ハンと王女」、美しく幻想的な「ヨーダのテーマ」も素晴らしく、「雪の中の戦い」「ハイパースペース」「小惑星の原野」といった名曲たちが脇を固め、最後はもう完璧としか言いようのない「フィナーレ」で終幕となる。

 正に見る回数を重ねるほどに夢中になる魅力と魔力が「帝国の逆襲」にはある。だから赤子がある日を境に2本の足で歩き始めるのと同様に、スター・ウォーズのファンとなった人が一定の時期を経た後に「帝国の逆襲」に対し、高い評価を与えずにいられなくなるのは当然だと思うし、これはもはや「通過儀礼」のようなものだとさえ思っている。
しかしだ。

 それでもなお、私はそもそもの出発点である第1作の「スター・ウォーズ」、現在の正式タイトル「エピソード4 新たなる希望」が「唯一無二のスター・ウォーズ」であると断言できるのである。
その理由は極めて単純で、映画の世界は1977年5月25日の本作の公開によって完全に変わってしまったからだ。
 世界中の幼児から老人までもが夢中になったオリジナルの「スター・ウォーズ」は、古典的勧善懲悪の物語を最新の特殊視覚効果技術で描き、学生時代から「編集の天才」と呼ばれたジョージ・ルーカスの創り上げた映像に、すでに1975年の「ジョーズ」によって全盛期に突入していたジョン・ウィリアムズが、ワーグナーの楽劇におけるライトモチーフの手法を全面的に採用して新しい時代の「英雄物語」を謳い上げた管弦楽曲が組み合わさることで、かつてなかった「映像快感体験」を実現したのだ。
 20世紀フォックスのファンファーレの音楽的特性が、自然につながるように意識して作曲されたメインタイトルが宇宙の彼方へと飛び去って行くタイトルロゴを送り出す。続く「ルーク・スカイウォーカーの動機」が画面下からせりあがってくる、物語の背景を説明するクロールに合わせながらも、これから始まる冒険への期待を盛り上げていく。そのクロールが宇宙の彼方へと消えていくとともに画面は惑星タトゥイーンの上空へと移り変わる。「反乱軍の動機」と共にレイア姫を乗せた宇宙船が頭上を飛び越えていく。それを追いながら画面を覆いつくしていくスターデストロイヤーの巨大な姿に、すべての観客が驚愕し、そしてその時点ですでに彼らは「遠い昔の遥か彼方の銀河系」の住人となっていた。

 このわずか数分の音楽と映像だけで構成された導入部は、それまでに人々が体験したことのない興奮をもたらしたし、このオープニングに匹敵する映像的快感を持つ作品は、約50年を経た現在でも登場することができていないのだ。それはその後に続く一連の「スター・ウォーズ」の作品でさえも同じであり、ジェームズ・キャメロンやリドリー・スコット、JJ・エイブラハムズ、ピーター・ジャクソンなど数多くの映画監督たちが「人生が変わってしまった」という衝撃を、この第1作以外で与えられたことはないのだ。そして時代は「スター・ウォーズ以後」と分類できるようになり、「以後」であるからこそ、「帝国の逆襲」には存在理由が与えられ、第1作による「土台」があるからこそ、今に至るまでの揺るぎない高評価があるのだ。

 そしてこの第1作がもたらした映像快感は劇中の随所に散りばめられており、それが映画の最後には頂点に達する。
デススターへの攻撃において、反乱同盟軍の戦士たちは次々に撃墜されていく。トレンチでの攻撃もゴールドリーダー、レッドリーダー共に失敗し、最後の望みを託されたルークのチームでも旧友のビッグスが撃墜される。この絶望的状況の中でルークの頭の中にベン・ケノービの声が響く。
 「フォースを使え、ルーク」
 ここから音楽は「ルークの動機」を繰り返していき、R2被弾、土壇場でのハンの救援、そしてルークによるプロトン魚雷の撃ち込みと続き、ついに「自殺行為」とも呼ばれた作戦は成功する。
ヤヴィン基地へと帰還したルークは歓喜に沸く仲間、とりわけレイアによって熱狂的に出迎えられる。そこへもはや皮肉屋という仮面を脱ぎ捨てたハンが駆けつけてくる。一方で3POはそれまでに悪態を浴びせかけ続けてきた盟友R2が、被弾して油まみれに傷ついた姿に狼狽する。そんな彼にルークは「きっと直るさ」と励まして冒険を共にしてきたハン、レイアと立ち去る。
 そしていよいよ「王座の間」だ。これより先は冒頭と同様に映像と音楽だけで進行する。
 ファンファーレと共にルークとハンが姿を現す。続く旋律は現在では「フォースのテーマ」と呼ばれるが、公開当時は「ベンのテーマ」、そして「旧共和国の動機」と呼ばれていた。そう、レイアの元へと歩んでいく彼らの姿には、作戦の成功によって可能性が見えてきた「共和国の復興」という未来を音楽によって重ねているのだ。そして「ルークの動機」が再び奏でられ、ハンとルークはレイアの祝福を受ける。C-3POは輝く金色に磨き上げられ、そこへ完全に修復されたR2-D2が歓喜に踊る様子で寄り添ってくる。その様子を3人の英雄が満面の笑顔で見守る。正面に向き直るレイアに促される形でルークとハンも前を向く。そして万雷の拍手による賞賛に包まれたヒーローたちの姿を映したまま、最大級の幸福感と共に映画は幕を閉じ、そのままルーク、反乱軍、レイアの動機が展開するエンドタイトルへと移行する。
この時に感じた圧倒的な満足感を超える体験を、結局のところ二度と味わうことなく現在に至っている。強いて言うならば「ガーディアン・オブ・ザ・ギャラクシー」の第1作が一番近かったと思う。

 「帝国の逆襲」が優れた映画であることは言うまでもないが、そこで味わえる満足感は、やはり「第1作で始まったスター・ウォーズという物語の一部」としてのものであり、「映画」として、そして「映像による快感体験」という意味での満足感では決してなかった。振り返ってみればルーカスの手による映画6作品でも、第1作以降の作品は複数のフィールドで起きた出来事を同時に描く形で進行しており、最初のデススター攻撃のように、たった一つの目的のために観客も共に集中するような体験はできない。だからこそ、第1作には他では味わえない、そして過去にも例のない、正にスペースオペラとしての「快感」に満ちた興奮があるわけで、その純粋な感動は、今でもサウンドトラックを聴くことで、時を越えて再体験できる。それこそが「スター・ウォーズ」が映画史の分岐点となった「歴史そのもの」であり、「帝国の逆襲」では決して味わうことのできない、映画としての、そして自分史における「最大級の幸福体験」なのだと今も思うのである。


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