見出し画像

2本の「オリエント急行殺人事件」それぞれの存在意義とは

 犯罪被害者の気持ちというものは、同じ境遇に立たない限り決して理解できるものではないと思う。長年事件報道に携わってきて、実際に数多くの犯罪被害者の方々と過ごした経験があってさえも、彼らの気持ちというものは「なんとなく察せられる」といった程度の理解しかできないものだ。

 それでも当事者にとってみれば、時間と共に感情を共有できるのはマスメディアの人間くらいしかいなくなるらしい。近隣住民や友人たちは近すぎるか、あるいは遠すぎるかで結局気持ちを共有できず、警察関係者にはもちろん協力を惜しまないが、未解決の場合、そのフラストレーションが溜まっていき、その矛先をどうしても捜査関係者に向けたくなってしまう時があるんだそうだ。

 で、マスコミの場合、気を使わずに人前で笑い、そして泣くことができるのも取材で親しくなったマスコミ関係者の前に限られてきてしまう、という嘆きも聞いた(もちろんそんな関係に至らないマスコミ人も多いのだが)。
女児を誘拐した上で(恐らく)殺害して遺棄した者が分かっていながら証拠がないために、いまだに未解決の事件もある。その子のお父さんとはカメラマンともども明け方まで居酒屋で飲んだくれ、悔しさに泣き、怒りで手に持ったグラスが割れ、血が流れても3人で泣き続けたこともある。そんな年月を積み重ねても、やっぱり犯罪被害者の人たちの気持ちは「分からない」ものなのだ。

 それでもメディアはその使命として、番組や紙面を通じてこうした悲劇を伝え続け、未来に起こりうる犯罪の抑止力たらんと希望を込めて情報発信を続けていく。「マスゴミ」などと一部の人々から揶揄されようとも、そんな雑音など構っている暇は現場の人間にはないのだ。

 さて、こうした想いは古今の劇作家たちにも当然あったし、小説だけでなく映画作品などでも「娯楽」という衣に包んで観客を啓蒙し続けてきた。

 アガサ・クリスティの小説「オリエント急行の殺人」は、その奇抜なプロットで世界中に知られた推理小説の代表作だ。誰もが知っている結末だとは思うが、世代によっては知らない人もいるので最低限のネタバレで説明すると、この物語の犯人は「犯罪被害者」であり、その動機は「復讐」である。

 しかしながら、1974年にシドニー・ルメット監督が映像化した「オリエント急行殺人事件」は、超オールスターキャストでルメットの流石と唸らされる見事な、しかも軽やかな演出で決定版ともいえる傑作に仕上がっていた。特筆すべきはアルバード・フィニー演じるエルキュール・ポアロのキャラクター造形で、鼻持ちならない雰囲気をも醸している点が、結末に至る観客の心理に巧妙に作用しているんだけど、改めて観てみると、ローレン・バコール、イングリッド・バーグマン、ジャクリーン・ビセット、バネッサ・レッドグレイブといった女優陣の競演の豪華さに眩暈がするとともに溜息が出てしまう。いずれにせよ、この74年版には犯罪被害者の持つ苦悩は十分に描かれてはいるが、それが作品の中心となる核をなしていたわけではなく、謎解きを主としたエンターテイメントこそが核だったと思う。

 で、ケネス・ブラナー版の「オリエント急行殺人事件」だ。

 オールスターキャストなのはルメット版と変わらず。しかし大きく異なるのは犯罪被害者の苦悩が核となっている点だ。そのためこのブラナー版では謎解き自体は強引というかあっさりというか、実に淡白な中身で、その分容疑者の心理を観客が如何に共有できるかという点に力を割いていると思う。実際、クライマックスでは泣いてしまった。これはルメット版では起こらない感情だと思う。

 犯罪者に対する司法の立場は変わらずとも、社会の反応には時代ごとに変遷があった。そしてどんなに凶悪な犯罪者にも一定の人権が保障されるのが現代社会であり、そんな時代にある種の復讐劇を描くのであれば、それなりの仕掛けが必要になる。今回のブラナー版はそれをクリアしていると思う。これもまた映画という形態を借りた、「犯罪のない世の中の実現」という未来への希望を込めた作品だったからである。

この記事が参加している募集

おすすめ名作映画

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?