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「SHE SAID シー・セッド その名を暴け」が映像で語りかけてくるもの

 映画プロデューサーのハーベイ・ワインスタインが長年行ってきた性的暴行の事実を告発した2人のジャーナリストを描いた「SHE SAID シー・セッド その名を暴け」は、その原作でもあるジョディ・カンターとミーガン・トゥーイーによる著作「その名を暴け: MeTooに火をつけたジャーナリストたちの闘い」の単純な映像化ではなかった。

 世の中に大きな変化をもたらしたジャーナリストによるスクープを描いた作品としては、古くはニクソン大統領によるウォーターゲート事件をワシントン・ポスト紙の2人の記者、ボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインが暴いた1976年のアラン・J・パクラ監督の「大統領の陰謀」があり、それに先立った同社によるペンタゴン・ペーパーズの存在のスクープは2017年のスピルバーグ監督作品「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」がある。
 また、2015年にはボストン・グローブ紙による「カトリック教会での性的虐待事件」のスクープを描いた「スポットライト 世紀のスクープ」がある。
どの作品もジャーナリズムとはどのようなもので、どのような闘いなのかを描いた傑作だし、ワインスタインの行状をスクープしてピューリッツァー賞を受賞したジョディとミーガンの取材過程もまた、ジャーナリズムの鑑のような作業で素晴らしいものだ。

 と同時に、映像化された「SHE SAID」には映画ならではの描写が数多く存在する。それは「女性という存在が抱える様々な苦悩」だ。
 映画の冒頭ではミーガンの妊娠がわかり、休職、出産、子育てという経緯を順に追っていく。それと並行してジョディはワインスタイン事件の調査に関わっていくことになるのだが、彼女もまた、2人の娘を育てながら、という母親としての忙しさを抱える一人の女性として描かれていく。幼い下の娘の面倒を長女が引き受けると申し出た場面では、字幕では「ありがとうね」といった表現だったが原語では「You are my Hero(あなたは私のヒーローよ)」とより強い感謝の気持ちを表していた。それは働く女性にとっての子育てが大きな負担であることの実例としての描写だった。
 一方のミーガンも産後のうつに悩み、不安定な精神状態が続いていて、それを夫が支えるという描写が過度にならない程度に描かれている。彼女らの夫は可能な限り妻と子育てを分担しているが、往々にして男の場合は「子育てに追われる母親を、父親が手伝う」というニュアンスになる場合が多い。 
 本作の2人の場合は、そういった「平均的な夫たち」に比べてより協力的、能動的ではあるが、それでも彼らには「出産」という過程の経験がない。ミーガンのうつ状態はその「男女における決定的な格差」を明確にしている。ミーガンは子育てについてジョディにも相談し、ジョディもまた最初の出産時にうつ状態になっていたことを知り、(夫のサポートがありはしたものの)それまで感じていた孤独から少し解放されたような表情を見せる。この何気ない会話の場面は、その後の調査報道が進展していく際のアクセントにもなっていて重要な役割を果たしていると思う。

 また、かつてハラスメントを受けて示談金を受け取っていたロウィーナ・チウは、その忌まわしい過去を夫には隠していた。このこと自体は見過ごしてしまいがちだが、そもそも男性がセクシャルハラスメントに遭う事例が少ないため、そうした「過去を隠す」という行動は圧倒的に女性に多いということを再認識させる効果がある。
 そして唯一、示談交渉もなく職場から逃げ出したために、契約に縛られることなく証言が可能な女性、ローラ・マッデンは乳がんの宣告を医師から受け、呆然となる。もちろんそのことが死に直結するとは言えないが、多くの人にとって「がん宣告」は今もなお「死の宣告」に近い衝撃があるし、そして乳がんはまた「女性特有のがん」だ。

 ワインスタインによる数々の所業が明らかになっていく過程で、こうした登場する女性たちが抱える「女性特有の苦悩」が織り交ぜて語られることで、この映画が単に「セクハラスクープを追うメディアの物語」だけではないことが明確になっているのだ。

 映画のクライマックスで、ニューヨークタイムズ社についにワインスタイン本人が弁護士らを引き連れて乗り込んでくる。その相手をミーガンは一人で受けて立つ。カメラは会議室で盛んに発言するワインスタイン一行の様子と、それを聞いているミーガンの表情を追う。彼らがどんな内容の会話をしているのかはわからない。だが、カメラはゆっくりとミーガンへズームインしていく。そして彼女の表情から、彼女がそれまでの(産後うつなどの)苦悩から脱却し、一人のジャーナリストとしての充実感を実感していることがわかる。この場面におけるキャリー・マリガンの演技は見事としか言いようがない。

 抑制の効いたマリア・シュラーダー監督の演出は、感情的な表現への誘惑に陥ることなく、この複雑でありながらも「女性が多くのものを背負わされてきた実像」という単純な命題を見事に一つの物語に昇華させている。だから「スクープを追う」という本筋とは関係なく見えるこれらの「女性の苦悩」の描写が意味するところをスルーしてしまうことは、結局、長年に渡って何もしてこなかった人々と同じことをしてしまうことになるわけで、本作を「退屈」と片付けてしまう観客が、特に日本で一定数存在するのは残念な事実だと思うのである。

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