リズと青い鳥

これは音と光と箱庭の映画だ。

物語の背景でいつも音が鳴っていることが印象に残っている。
部室のカギを開ける音、上履きが床を擦る音、水槽のポンプの音、校舎の工事?の音、体育館に響くバスケットボール、廊下のざわめき、どこかの教室で練習している吹奏楽部、弱々しいフルート、みぞれの演奏に紛れて聴こえる啜り泣きの声。
画面の内側と外側で三種類の音が鳴っている。劇伴であり、登場人物の演奏する楽曲であり、そして環境音である。演奏される音楽だけではなく、その空間に発生する音。写実的な音というのか、場所に人と物があれば自然に発生する音を余すことなく拾い上げている。それは、効果音という域を超えて、そこにある空間の中で鳴っている音そのものを聞かせようとしているかのようだ。この映画の世界に存在するものは楽器として等価であり、校舎とは、そういう音に満ちた場所として描かれている。
その空間の中で登場人物が演奏し、彼らの物語に劇伴が寄り添う。鳴らされるか、鳴っているか、その区別は次第にあいまいになり、というか、一つの音楽として響き合っていく。フィクションの音と写実の音が浸透し合う瞬間は感動的だ。

脱いだ靴の並べ方やちょっとした手の動き、伝染る口癖、名前の言い間違い。登場人物のおしゃべりのように、細部の描写がざわめいている。ストーリーだけじゃなく、画面の上で表現されていることが拾いきれないくらい豊かで、見るたびに発見がある。

映画の時間と空間は学校の校舎という箱庭に閉じ込められている。吹奏楽部の練習に向かう冒頭から、結末の帰り道まで、主役二人を取り巻く日々がまるで一日の出来事のように描かれている。登場人物は決して学校の外には出ない。梨々花がみぞれをプールに誘った次の場面では後日の会話をしている徹底ぶりだ。
学校にいる間の出来事しか描かないから夜が無く、朝から夕暮れまで、濃淡を変えながら様々な光が常に画面を満たしている。窓から差し込む日差し。蛍光灯の明かりに夕焼け、白くぼやけた視界、手を振る二人に合わせて揺れ動くフルートの反射光。こういう光、そして音がこの映画の語り手である。

言葉に依らずに語ること。むしろ言葉は本心を隠し、すれ違いを生む。台詞がどこか空々しいのは意図的だろう。言葉は本当のことを言わないか、言い間違える(梨々花の台詞はその罪のない例だ)。表れていることとその裏にあることのズレが関係を軋ませ、画面を緊張させる。ストーリーは言葉にされないところで進行する。
ボルヘスがたびたび著作の中で言及しているのだが、ダンテの『地獄篇』にパオロとフランチェスカという恋人たちのエピソードがある。一緒に読んでいたランスロットの恋物語によって互いの恋愛感情に気付く彼らの姿に『リズと青い鳥』という童話で変化する希美とみぞれの関係を連想した。ただしここで起こっているのは恋心の自覚ではなく互いの立ち位置の誤読である。

どこか小高い丘のベンチから夕陽を眺めるシーンがあったと記憶している。その一瞬を除けば校舎の外は存在しない。それはつまり、この映画で描かれているのは箱庭に限定された関係、限定された葛藤だからで(それゆえに切実なものではあるが)あり、いつかは校舎の外に出る時が来る。その時にはきっと、いくらかは救われていて、いくらかは喪っている。『リズと青い鳥』という映画は、シリーズ作品の一部であるだけでなく、普遍的な青春の一断片だ。

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