『パッサカリア』ロベール・パンジェ/堀千晶訳 水声社

厩肥の上で男が死んでいる。いや、その男は机に突っ伏して死んでいた。いや、厩肥の上で死んでいたのは四肢を空に向け腹を切り裂かれていた牝牛である。いや、厩肥の上には案山子が倒れ掛かっていた、血のように見えるのは布切れの赤である。

実際に作者と親交があったという事実はさておくとしても、ロベール・パンジェの『パッサカリア』はロブ=グリエを彷彿とさせる小説の騙し絵だ。
ロブ=グリエの作品においては例えば人物として描写されたものがマネキン人形にすり替わり、現実の殺人の場面が本の挿絵だと明かされる。
見えているものが叙述を重ねるうちに別の物へと変身する手法は『パッサカリア』にも見られる。
ある死体をめぐって小説の語りが展開していくのだが、いや、展開というような直線的なものではなく、厩肥の上の死体というイメージをめぐって様々な出来事や人物が現れては消えてゆく。どこに辿り着くでもない渦巻きの迷宮だ。

解説によると、「まなざし」の作家であるロブ=グリエに対して自分は「声」(聞くこと)を重視しているとパンジェ自身語っていたらしい。

この小説も「わたし」「われわれ」という誰とも知れない語り手たちの声によって構成されている。見える光景というよりは誰かが見た光景を語る声の聞き書きということか。

そのためなのか、叙述に使われる言葉そのものが物質性を持っているように感じられる。ある時ある場所を語る単語を組み替えることで、少し似ているが全く異なる状況が発生する。題名の通りの変奏の技法である。小説でありながら詩作品を読んでいるように感じられるのはこの単語の組み替えの形式性のためだ。

語る言葉を少し入れかえるだけで世界が変わる。いつの、どこの、誰なのか。反復するたびに全く異なる時空間が出現する。それができるのは小説が言葉だけを材料にした世界だからだ。エクリチュールだヌーヴォー・ロマンだといった能書きで敬遠せず小説の魔法を体験してほしい。


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