北野勇作『クラゲの海に浮かぶ舟』 空っぽの容れ物と逃げ出した物語について


とても綺麗だった。でも、もう壊れてしまっている。だから余計に綺麗なのかもしれない。

 どうやら『君』は、そのためだけにわざわざ創られたキャラクターらしいんだよ。
『機一郎であるぼく』をその内部にはめ込むために、あらかじめからっぽの容器として創られた登場人物、というわけだな。

北野勇作の『クラゲの海に浮かぶ舟』を読んだ。

「ダイヤモンド・リング」と呼ばれる巨大な建造物が崩壊した。勤めていた会社を辞め、古いアパートに一人暮らす「ぼく」のもとに「田宮麻美」と名乗る女が現れる。彼女は「ぼく」の元恋人であるらしい。会社を辞める時に記憶の一部を抜き取られた「ぼく」は元恋人のことを思い出せない。彼女がやってきた目的は「ぼく」の脳に記憶されたデータを回収することであり、それは、記憶を失う前の「ぼく」が彼女に頼んだことだという。
彼女に連れられて行った河原で「陸クラゲ」と呼ばれる陸生の大きなクラゲを捕まえる。このクラゲと「ぼく」の頭を何やら怪しい装置に繋いで彼女は「ぼく」の記憶を探っている。そうこうしているうちに「ぼく」を狙った会社の襲撃があり、撃ち込まれた弾薬でアパートがドロドロに溶けてしまう。かろうじて脱出した「ぼく」と彼女は奪われた記憶を取り返すため、「ダイヤモンド・リング」を目指す。

というのがこの小説の冒頭部分のあらすじである。
この小説には「これまでのあらすじ」という言葉がよく出てくる。元恋人を名乗る女が語る記憶を失う前の「ぼく」のこと。ナノマシンの暴走によって「ダイヤモンド・リング」が崩壊したという噂。それがテロリストと内通した社員によるものだという公式の発表。怪獣を作ろうとして自分が怪獣になってしまった研究員の話。時には矛盾するいくつものあらすじが存在する。確かな真相というものはない。すべては物語であり、記憶もまたフィクションである。

北野勇作の作品の主人公はいつもぼんやりしている。記憶が欠落していたり、自我が薄かったり。自分の記憶が欠落していること、そうなった原因が外部にあることはなんとなく気づいているが、それで慌てるわけでもない。記憶とはつまり自分を証す「これまでのあらすじ」である。本当か嘘かわからないあらすじがいくつも転がっている世界の中に、確かなあらすじを持たない主人公がいる。

 ぼくはゲタ箱からサンダルを出してつっかける。彼女は両方の靴を同時に履いた。器用なもんだ。
 玄関のすぐ外のアスファルト道路が日差しを受けてまぶしかった。路肩の砂が露光過多の映像のように白く光っている。
 静かだ。どういうわけか、あれほどうるさかった蝉の声も聞こえない。振り向くとアパートの廊下がひんやり薄暗い。
 玄関のガラス戸を開けると、外の熱気が吹き込んでくる。ほこりっぽい道。その向こうの土手の上に書き割りみたいなまんまるな雲がひとつ浮かんでいる。

坂の上を登って見えてくる青空と雲、蝉の鳴き声、河川敷。郷愁を喚起するいくつもの要素。その中で起きている出来事や背景となる状況の(SF的な)深刻さと反比例するように、その世界を描写する語りはとても情緒的でどこか懐かしさを感じさせる。だが、そのようなノスタルジーに潜む罠にも北野勇作は自覚的である。
この作品に限らず、部分的にしか記憶を持っていなかったり、ぼんやりしていて自我の薄い主人公が多い。感覚にマスキングされている設定の作品もある。懐かしく美しい虚構の外側にどんなグロテスクな現実が広がっているのか、語り手のフィルターを通してしか見えてこない。
北野勇作の小説で扱われる「記憶」は「記憶の操作」とセットである。消されたり奪われたり偽造される記憶だ。つまり虚構である。北野勇作作品における悪は記憶と物語を収奪する。記憶や物語を支配・管理しようとする組織やシステムがある。

この作品には2つの物語がある。ナノマシンを暴走させ、「ダイヤモンド・リング」を崩壊させた「生きた物語」と、そこから生まれた「ぼく」の物語だ。

 とにかく、そんなプロセスを繰り返すことによって、その『不幸の記憶』は生き残ってきたらしい。
 そのコピーの過程で必ずヒトの脳というフィルターにかけられるため、その内容に少しずつ修正が加えられることになる。そして、それがより生き残りやすい方向へのベクトルとして作用した場合に生き残ることができるのだ。失敗してそのまま消滅したバージョンも無数に存在する。
 だから、君の記憶にあるバージョンでは、その舞台はダイヤモンド・リングになっていたが、そんなものができる以前からその『不幸の記憶』は存在していたとも考えられる。つまり、ヒトからヒトに伝えられる過程で、舞台がダイヤモンド・リングに変えられた、というわけ。そのほうが聞き手の興味を引きやすい、という理由でだ。聞き手に受ければ受けるほど、それはさらにコピーされる可能性が高くなるのだから。
 ひょっとするとダイヤモンド・リングどころか、オートバイすらなかった昔から、それは生き続けてきたのかもね。
 それはそんなふうに自らを書き換え、つねに『現在起きている物語』として環境への適応を図ってきたのだ。その過程は、進化と言いかえてもいいかもしれない。
 つまりそいつは、脳から脳へ渡り歩く『生きている情報』なのだ。かつて『呪い』とか『祟り』とか呼ばれていた情報群によく似ている。
 もしかしたら、その『生きている情報』が乗り物としての新しい肉体を手に入れるために、誰かの脳を操ってネクストライフ・コーポレーションという組織を創り上げ、ダイヤモンド・リングを造らせ、さらにその中枢にあった分子アセンブラを計画的に暴走させたのかもしれない。

一切の出来事が起きるはるか昔から物語だけが存在し、その物語が自らの生存に適した形へ現実を作り替えたのかもしれない、という驚くべき指摘がある。
その「生きた物語」から派生的に生まれたのが、巻き込まれた「ぼく」の物語である。「田宮麻美」の元恋人であるかもしれないし、怪獣を作ろうとした研究員かもしれない。何度も繰り返されてきた物語の大元がいつのどこの誰なのかもはやわからない。
記憶、そして自我(それらは物語の別名であるが)は乗り物を変えて伝わってゆく。脳内の情報を陸クラゲのような人工生物や他の人間に移し替える技術がこの作品の重要な要素である。この仕掛けによって、物語の入れ物と中身が分離する。「ぼく」の記憶は乗り物を変えて逃げ続ける。ひとつの物語、ひとりの人間の記憶が飛び散って運ばれる。語り手の同一性という前提がひっくり返される。

 このゲームは何度でもやり直せる。リプレイできるの。

終盤で明らかになる真相によって、この小説の物語が何度も繰り返されてきたことが示唆される。
既に擦り切れた物語を反復する(演じる)欠落した者たち(たとえば『カメリ』の滅亡した人類の生活を模倣するヒトデナシやカメリ)という印象が北野勇作の作品にはある。

何度も繰り返されたゲームのシナリオ、加工されて複製されてもはやいつのどこの誰のものかもわからない記憶。この作品のなかにあるのはそんな空虚な物語ばかりだ。「からっぽの容器」。そして、その空虚さを引き受けてそれでも謳歌しうる生をその後の作品(たとえば『カメリ』や『どろんころんど』)に見ることができるだろう。


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