『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を見たよ

東京タワーが真っ二つになって地面に突き刺さる光景を見るために何度も映画館へ足を運んだ。
タワーが崩壊して開けた視界に真っ青な空が広がる。風の中に上掛けを投げ捨てる登場人物たち。
初めて見た時は何が何だかわからなくて、でもすごく爽やかだった。作画と楽曲と演出で、つまり映画の言語でわからない話がわかるように語られて、背景を知らない登場人物たちの物語に感動していた。
凄いアニメを見てしまった、と思った。
情報量で殴られた。キャラクターのビジュアルとアクションと音楽と演出、アニメ映画の快楽を一度にまとめて浴びせられた気分だった。

作品の存在自体は知っていた。ラブライブみたいなアイドルアニメの宝塚版、くらいの認識で。あとはバトルロイヤルものらしいとか、「アタシ再生産」という奇抜なキャッチコピーから『輪るピングドラム』の「生存戦略」を連想した。ケレン味とバチバチさ加減で先行作品と差別化しようとしているんだろうな、くらいに思っていた。

この印象はある程度合っていてある程度間違っていた。監督の古川知宏は『輪るピングドラム』『ユリ熊嵐』など幾原邦彦監督作品にメインスタッフとして携わってきた人物だ。間違っていたというのはキャラクター同士が言うほどバチバチしていなかったこと。まあそれはいいのだけれど、結局この劇場版が初めて触れたレヴュースタァライトになった。

作品の前半で主人公たちの乗っている地下鉄が突然変形してバトルシーンが始まる。この展開にも度肝を抜かれたが、その直前に車両の扉が開いてキリンのマークが入った車輪が転がり込み、それに合わせてつり革が一斉に向きを変えるところがすごく『輪るピングドラム』のようだと思った。電車のメタファー、自動機械的で虚構性の強い舞台装置という要素が。
とはいえ幾原邦彦監督作品に比べるとこの劇場版『レヴュースタァライト』のメッセージは意外とわかりやすい。
突拍子もない演出がストーリーや登場人物の心情・関係性と密接に結びついており、その語りはきわめて論理的である。
また、舞台/レヴューを介することで登場人物の心象表現がそのまま「演し物」となって観客を楽しませる。このことは、役者は演じると同時に本人の個性も表現する存在ということが示された「魂のレヴュー」にも繋がる。
作劇と演出のすべてがカタルシスを生むことに集約されているため作品の背景を知らなくても感動してしまう。舞台は役を演じながら演者自身を表現する場であるのと同じく、レヴューでは楽曲や激しいアクションとともに登場人物の心情がさらけ出される。わだかまりを吐き出してぶつけ合って昇華させる。壮大なカウンセリングである。

ストーリーが完結して役目を終えた登場人物はその後どうするのか。この映画で繰り返し問われているのはこの一点である。メタフィクショナルな問いであり、何かを成した人間が燃え尽き症候群から脱却するまでを描いた普遍的な話でもある。
主人公の過去が語られることで、TVシリーズの物語を動かしてきた彼女の現在の空っぽさが明らかになる。役目を失った主人公のキャラクター性を再定義する。やりたいことの本質をとらえ直す。それは初期衝動だった。
そういえば、この作品では様々なものが相反する二つの意味を持っている。
過去を燃やして次の舞台を目指せ。これが、今挙げた問いに対する答えである。だから「舞台少女」たちはレヴューを通じてこれまでの関係性を清算しようとする。みんなで一緒に、から一人一人へ。二人で、からライバルへ。しかしながら、断ち切られない、これからも続いていく関係も肯定している。
何度も出てくる死という言葉も両義的である。「私たちもう死んでるよ」「朽ちて死んでいくところだった」「舞台少女の死」。価値や意味を失うこととして否定的に使われる一方で、「再生産」というキャッチフレーズに表れているように生まれ変わるための通過儀礼としても扱われている。だから「皆殺しのレヴュー」で彼女たちは一度殺され、その場に参加していなかった愛城華恋と神楽ひかりも別の形で死を経験させられている。この場合の死は燃焼である。これまでの自分を燃やす。大切な思い出や関わってきた人たちを燃やす。いわば「芸の肥やし」にする(ただ、「魂のレヴュー」はライバルの役として肥やしにされてたまるかという西條クロディーヌの反逆でもあった)。

役目を終えた登場人物の再生。これはなんだかとても残酷なことのように思える。コンテンツが続く限り、舞台を降りることは(観客が、ファンが)許さない。大場ななの「みんな、喋り過ぎだよね」という台詞は、観客に見せるべきは平場ではなくレヴューだと言いたいのか。
クライマックスの「スーパースタァスペクタクル」の始めでいわゆる「第四の壁」演出が見られる。舞台の幕が上がり、愛城華恋はスクリーンの前の観客の存在に初めて気付く。ここで舞台に立つことの怖さを知り、初めての死を経験する。再生した彼女は作中人物であることを自覚したキャラクターだ。
観客が求める限り舞台(コンテンツ)は続き、舞台少女(キャラクター)がいる限り観客はそれに引き付けられる。自らが虚構であること、コンテンツとファンの共依存で成り立っているものであることに対する自覚と開き直りが、この作品に感動という力を与えている。

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