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【教育】被差別部落のおっちゃんに教えてもらった話

もう35年以上も前、昭和の時代のお話です。そんな昔に、私は先生になりました。なんだか書いていてショックです。

私の最初の赴任校は、「被差別部落」と呼ばれる地域の人たちの願いが実ってできた学校でした。

そのため、人権問題について、丁寧で先進的な取り組みがされていました。私は、「被差別部落研究会(部落研)」の顧問に入らせてもらうことになりました。けれども、被差別部落についての知識はほとんどない状態です。小中学校で教えてもらってはいましたが、薄っぺらな知識がかろうじて残っている程度。部落研に集う生徒さんたちと一緒に合宿をしたり、話し合ったりするのですが、自分の無知をもどかしく感じるばかり。「生徒さんたちの暮らしが見えるところで暮らしたい」と思うようになりました。

教員になって2年目の23歳の時、「被差別部落(ムラ)」と呼ばれていたところで一人暮らしを始めました。女性用の小さなワンルームです。引っ越しの時には同僚の先生たちが大勢で手伝ってくださいました。本当に温かい職場でした。

自分の家にはシャワーしかないので、銭湯(本物の温泉が湧いていました)に行きます。すると、生徒たちや近所のおっちゃん、おばちゃんたちも来ています。銭湯で「せんせー」と呼ばれるのは最初は恥ずかしかったのですが、だんだんと慣れていきました。

「ムラ」で暮らしている私のクラスの生徒が、夜なかなか帰ってこない時など、お母さんからヘルプの電話が来て、一緒に探し回ることもありました。その頃は頼ってもらえたことがうれしかった。

そのうち、「ムラ」のおっちゃんと仲良しになりました。時々、「ばあさんが炊いたから食べへんか~。」と言って野菜の煮物と焼酎を持って遊びに来て、夜中まで「ムラ」の話を聞かせてくれたり、銭湯の帰りに、屋台で「かすうどん」をごちそうしてくれたり。

おっちゃんは、実は部落解放運動の先頭に立ってずっと闘ってこられた、ちょっと名の知れた方だったのですが、ものすごく優しくて大きな方でした。

ある日私はおっちゃんに、「ムラの子がね、『僕らは頑張らんでいいねん。何もせんでも貰えるし。』っていうんですよ。何か間違ってません?」とプリプリして言ってしまいました。

おっちゃん:そうか。そんであんたはこれからどうしたらええと思うんや?

私:どうって…

おっちゃん:差別をなくすにはな、大きい動きを起こさなあかん。大きい動きを起こすことでマイナスもでてくる。間違っているという指摘だけではあかんねんで。

私は、とても恥ずかしい気持ちになると同時に、こんな何もわかっていない新人に、これほど対等に話をしてくださるおっちゃんの偉大さを感じました。

初めての赴任校がこの学校であったことは、私の教員人生にとって、本当に幸せなことでした。おかげで人生そのものも豊かになったのではないかなと思います。


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